SECRET REVIEW

SCROLL
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IT COMES AT NIGHT

ゼロ年代の末から10年代にかけて、ゾンビがポップカルチャーに皮肉にも喰いつくされ、消費されてしまった結果、亜流とも変化系ともいえるエモーショナルなゾンビ・ドラマ映画が数多く製作されることになった。ゾンビと人間の恋愛を描く『ウォーム・ボディーズ』、アーノルド・シュワルツェネッガーの娘がゾンビと化す『マギー』、マーティン・フリーマン主演『カーゴ』、ゾンビ治療薬を巡るエレン・ペイジ主演『The Cured』、カナダの『飢えた侵略者』などなど。ゾンビ=生ける屍(さらには死の感染病)というコンセプトを拝借して、極限状態における人間たちのドラマティックな物語を綴る、ヒューマン・ドラマである。
とはいえ、一応補足しておくと、ゾンビ映画は完全に死んだわけではない。先日ベルギーのレイザーリール映画祭で鑑賞し「おっ!」と思ったのが、イギリス・アメリカ合作のゾンビ・ミュージカル映画『Anna and the Apocalypse』だ。青春ミュージカルコメディにゾンビをまぶした、なかなかコミカルでゴア描写のセンスが光るゾンビ映画だった。蛇足ながら。
本作『イット・カムズ・アット・ナイト』は、もちろんゾンビ映画ではない。主人公一家三人は、死を招く謎の病気の感染を恐れ、人里離れた森の中で孤立し、家族以外誰も信用できない、絶望と恐怖と緊張に満ちた生活を送っている。この設定から『イット・カムズ〜』は、上記のエモーショナル・ゾンビ映画の潮流から飛び出した変種というか、「ゾンビが出てきそうで登場しないゾンビ・ドラマ映画」といえるかもしれない。形としては、失明する謎の感染病を題材にしたフェルナンド・メイレレス監督のパニック映画『ブラインドネス』にもちょっと似ている。だがそれよりも、この映画はジム・ミックル監督の『肉』やスカーレット・ヨハンソン主演『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』、アニャ・テイラー=ジョイ主演の魔女映画『ウィッチ』、フランスの『RAW 少女のめざめ』、そしてノルウェイの『テルマ』といった10年代以降顕著な「アートハウス・ホラー」の系譜といえるだろう。
ここで本題。はたして、タイトルが指すように夜間にやってくる「それ(It)」の正体はなんなのか? ポスト・アポカリプトな状況で、死の感染症により人類が滅亡へと向かう中、「それ」は形のないテレパシーのようなもので人の心に入り込む。そして、ターゲットとなったのがトラヴィス。「それ」は彼の知らないところで、ひっそりとコンタクトを取っていたのだ。夢の中で。悪夢の中で。最初は感染した祖父。二度目は感染したウィル。三度目はウィルの妻キム。四度目は感染した祖父とどす黒い液体を吐く自分。「それ」が送り続けてきた、これら恐怖のイメージの洪水がトラウマとなり、現実と夢の判別がつかない夢遊病のような状態に陥ったトラヴィスは赤の扉を開け、玄関の扉を開け、すでに森で感染したスタンリーを家の中に迎え入れたのかもしれない。あのホラー的な夢のシークエンスは、ただの表面的なショック描写ではなく、もちろん意味があったのだ(多分)。ちなみにキスをし口から黒い液体をどろどろと吐くキムの夢のシーンは、ティーンであるトラヴィスの性的願望の現れともいえるが(夢魔=インキュバスの仕業ではない)、「it」には「セックス」や「性器」という意味もある。
「それ」がこの映画の脅威となる「死の感染病」を生み出し、世界に広めたのかはわからない。ただの死の媒介者なのかもしれない。他の地域や国に生存する人や生き物にとっては善き存在なのかもしれない。テレパシー自体が「それ」なのかもしれない。人知を超越した存在であることは間違いないが、「それ」は「死神」のような存在なのかもしれない。森の中で「それ」に遭遇したであろう犬のスタンリーはその答えを知っているのかもしれないが、すべては推測するしかない。「それ」の正体はそもそも重要じゃないのかもしれない。監督としては、そこに意味をもたせるつもりはなかったがために、それらしいヒントが皆無なのではないだろうか。「不条理に忍び寄る死を間近にしたとき、あなたならどうする?」という問いかけ自体が映画の核心であり本質なのかもしれない。
映画のラストでは、トラヴィスが死亡し、彼の父と母も、その目を見ると感染したことがわかる。一見、悲劇的なエンディングだ。キッチンテーブルで向かい合う2人の表情はしかし、死に向かう者とは思えない表情で、お互いへの愛情と滋しみを感じさせる。それは死の恐怖から解放される安堵でもあり、愛する者と出会い一緒に過ごせた日々への感謝でもある。『イット・カムズ・アット・ナイト』は家族の絆の物語であり、愛の物語なのだ。「それ」は2人の命を奪えど、愛を奪うことはできなかったのだから。

映画評論家/映画監督 小林真里

解き明かされぬまま終わる6つの謎

作品を観終えた今、あなたは何を感じているだろう。
腑に落ちないことばかりなのではないだろうか。
これから書くことが必ずしも正解だというわけではありませんが、
一つの可能性として受け取って頂き、
あなたの想像を膨らませるためのキッカケに繋がれば幸いです。

狭まるスクリーンの画面比率

劇中、スクリーンの画面比率が5回狭まっていたことにお気付きだろうか。5回の内4回はトラヴィスが見る悪夢の最中に起こり、目が覚めると元のサイズに戻っている。だが、4回目の悪夢から目覚めても、画面のサイズは狭まったままであった。血を吐き出し身体中に歪な発疹が出たトラヴィスの前に、死んだはずの祖父が現れる。そうして再び悪夢から目覚めると、画面は元のサイズに戻っていた。それはきっと、彼の心を蝕むモノが回数を重ねる毎に勢いを増してきたことと、もう悪夢の中だけでは収まらなくなってきたという暗示。終盤、トラヴィスが見る悪夢以外の場面において画面が狭まるのがその証拠。ポールに銃を突きつけるウィルに対し、サラが銃を構えた瞬間から徐々に画面が狭まり始めていく。それまでとは異なり、トラヴィス以外の者の狂気に呼応していくかの如くジワジワと時間をかけて狭まっていく。まるで悪夢が現実を侵食し始めていく瞬間であった。そして、各々に抱えていた狂気の種に水を蒔いたのは、他の誰でもないトラヴィスであった。

扉を開けたのは誰なのか

当たり前のように「夢遊病」というワードがポールの口から出てくることに違和感を覚えたのは私だけだろうか。日常に置き換えて考えてみて欲しい。身近にそういった人がいた経験がない限り、「夢遊病」という発想には中々至らない。そして、ポールにとって直結する人物こそトラヴィスであったのではないだろうか。彼の部屋にはベッドが2つあり、片方はおそらく亡くなった祖父が使用していたもの。そこから読み取れるのは、2人の仲が良かったことだけではなく、祖父個人の部屋がありながらも同じ部屋で寝なければならない“理由”があったということ。祖父が亡くなったことによるショックや枷が消えたことで再発し、画面比率が狭まっている間は夢遊病状態にあるトラヴィスの精神描写を描いていたのだと思う。スタンリーを連れ帰ったのも、扉を開けたままにしていたのも、全ては夢遊病状態にあったトラヴィスの行動が原因だったのではないだろうか。

突然出て行こうとするウィル達家族

大人達はぞれぞれにパートナーがいるが、心の拠り所であった祖父やスタンリーを失い、トラヴィスには他に縋れるものが何もない。況してや思春期真っ盛りの17歳。キムとアンドリューの後にシャワーを浴びたり、深夜にキムと接してドキドキしたり、イチャつくウィルとキムの会話を盗み聞きしたりと、トラヴィスの性に対する執着が随所に垣間見えてくる。しかし、世の中の状況が状況だし、同世代の異性や性の対象が彼の身近にはいない。結果、辿り着いたのがアンドリュー。夢遊病状態の際に祖父の部屋へアンドリューを連れ込み、自身に宿る欲望を露わにしたのではないだろうか。アンドリューが「覚えてない」と言ったのは、何をされたのか、何が起こっていたのかを理解できず言語化できなかったため。頑なに家を出て行こうとするウィル達家族は、感染が原因ではなく、朝になってアンドリューの身に起きていた別の異変に気が付いたため。ただ、助けてもらった恩義があるため大事にはしないで去るつもりだった。少しでも早くアンドリューをトラヴィスから遠ざけたかった。が、憤りはある。本当に感染していたわけではないから、お前の息子がやらかしたことなんだから、ウィルは「マスクを外せ」とポールに言い放つ。

廃屋へ向かう途中に現れた男達

車で廃屋へ向かう途中、襲撃してきた男達が2人いた。彼らがウィル、キム、アンドリューと共に廃屋で生活していた仲間だと仮定しよう。物資確保のため、ウィルが同乗していることに気付かずポールを襲撃。仲間であることをポールに悟られぬよう、とっさに男を殴り倒し誤魔化そうとするウィル。だが、予想外にもポールが仲間を撃ち殺してしまう。「知り合いか?」と問われ瞬時に即答できないウィルの姿に疑惑が生じるが、その動揺っぷりには他にも何かが秘められていたように思えて仕方がない。劇中、父親としてウィルがアンドリューと接する場面が一度もなかったことにお気付きだろうか。そこで新たに生まれる疑惑が一つ。彼らは本当の親子ではない。ウィルがアンドリューの父親でないのだとしたら、本当の父親は誰なのか。そう、ウィルが殴り、ポールが撃ち殺した男。子を持つ父親をポールが撃ち殺してしまったから、アンドリューが父親を失ってしまったから、その事実を唯一あの場で認識していたのがウィルだったから、激しい葛藤に苛まれていたのではないだろうか。その後、廃屋にてキムとアンドリューと合流する場面があえて描かれていないのは、安直なヒントを示すことを避け、多くを観客の想像力に委ねるため。他の要素を繋ぎ合わせていくことで辿り着ける違和感であったのだと、後々になって気付かされる。

ウィルの兄に関する話

序盤、兄の家から廃屋へやってきたと語るウィルであったが、ポールと酒を酌み交わす場面において自分は一人っ子だと口を滑らせてしまう。ただ、ボロを出す直前に「キムを追いかけて都会へ出た」と言っていたことから、ウィルとキムの恋愛関係に関しては真実のはず。しかし、死んだ男がアンドリューの父親であった場合、自ずとキムも母親ではないということになってくる。ウィルとキムがイチャつく場面を思い返してみて欲しい。3歳位の子どもがいる夫婦の営みに見えただろうか。恐竜のおもちゃで足をつついてくるアンドリューに対し、「やめさせろ」とキムに言うウィルはどう考えても父親のそれではない。また、劇中においてアンドリューがキムに対し「ママ」と口にするのも一度だけ。終盤、ウィル達が出て行こうとする際に「ママ、ママ」と泣きじゃくり、キムが「ここよ」と答えていたが、感染して視力を失っていたのでなければ、アンドリューが呼んでいたのは本当の母親の方であってキムじゃない。先述した男達も含め廃屋で5人で生活していたのなら、唯一の女性であるキムに懐き母親代わりのように慕ってたいのは合点がいく。キムもまた、そんなアンドリューを愛おしく想っていたのも事実だろう。けれど、細かな言動・行動・佇まいの一つ一つが、キムが母親ではない可能性を高めていく。ポール一家の前では抱きかかえたり手を繋いだりはしていたが、それはアンドリューが余計な発言をした際にすぐ制止できるようにするため。そもそも、ウィルといる時にはマトモに相手もしていない。年相応のやんちゃさや子どもらしさを殆ど見せないアンドリューの姿にこそ、多くを紐解くためのヒントが宿っている。

スタンリー(犬)は何に吠えていたのか

何かに反応し、追いかけて行ったまま姿を消してしまうスタンリー。結局何を追って行ったのか、何故感染して帰ってきたのか分からないまま物語は幕を閉じてしまう。あの場面において気がかりなことがあったとすれば、姿の見えない何かに対してではなく、森の奥へ進むトラヴィスを必死に止めるポールの慌てよう。何事にも慎重且つ冷静に対処してきた男が、慌て過ぎてズッコケてしまっていた。それは単に愛する息子を心配していただけかもしれないが、森の奥深くに発見されるとマズい何かがあったからかもしれない。自身の義父さえも躊躇いを見せずに殺し、廃屋で遭遇した2人の男の後処理も手際が良い。そういった経験が過去に何度もあり、相手が義父だからといって感傷的になる心すら潰えていたのではないだろうか。冒頭で「見せなきゃダメだ」「隠し事はあの子のためにならない」と言っていたのは、祖父に関する話だけではない。これまでのこと、これからのことを息子には伝えていかなければならないということ。スタンリーが姿を消す場面の直前、ポールが「どんなに善人に見えても家族しか信用しちゃダメだ」とトラヴィスに言うのもそう。森の先にはこれまで埋めてきた感染者の遺体がたくさん埋められており、リスクを避けるため森の奥深くへ向かうトラヴィスを必死に止める。ウィルも居合わせたため事実を伝えられず、夜になって「明朝一緒に捜しに行こう」と言うのも、トラヴィスが一人で探しに行って感染してしまうのを防ぐため。結果的には、死体を掘り起こし感染したスタンリーに触れたことでトラヴィスは感染したのだろう。

シンプルに作品を観ただけでは、きっと何も解決しない。

夜に訪れる“それ”が何なのか、具体的な何かが現れたり明示されることを望んでいたのなら肩透かしを喰らったかもしれない。だが、今作は観終えてからが本当のスタート。どれだけ考えても明確な答えは得られやしないが、考えれば考える程に随所にヒントが散りばめられていることに気が付くはず。理詰めで徹底的に向き合えば、ココに書き記したようなことにだって容易に辿り着けるはず。そこから先の答えは、“それ”が一体何なのかは、あなたの考え次第で変わってくる。ここまで思考を巡らせられる余地が詰まった作品も珍しい。全てを認識した上で観返したのなら、また新たな発見が、新たな疑惑が、あなたの心を蝕むことになるでしょう。

映画アドバイザー ミヤザキタケル