1933年10月29日 | バージニア州セントラル・ポイントでリチャード・ペリー・ラビング誕生 |
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1939年7月22日 | バージニア州セントラル・ポイントにてミルドレッド・ドローレス・ジーター誕生 |
1958年6月2日 | リチャードとミルドレッドワシントンD.C.にて結婚。その後、セントラル・ポイントのミルドレッドの実家に移り住む |
1958年7月11日 | キャロライン郡担当のバージニア州弁護士であるバーナード・マホンが、リチャードとミルドレッドの逮捕状をとる |
1958年7月12日 | 午前2時、ブルックス保安官が寝室に突入し夫妻を逮捕。夫妻はボウリング・グリーンの監獄に収容される。リチャードは一晩過ごしたのち1,000ドルの保釈金を支払い釈放され、ミルドレッドは5日間を獄中で過ごし、1,000ドルの保釈金を払って釈放される |
1958年10月 | ラビング夫妻、バージニア州の異人種間結婚を禁じた法令に違反しているとして起訴される |
1959年1月 | 1年間の服役の判決が下されるが、「直ちにキャロライン郡とバージニア州を立ち去り、25年間、前記の郡及び州に一緒に又は同時に戻らない」という条項に同意することで執行猶予となる 夫妻はワシントンD.C.のミルドレッドのいとこのアレックス・バードとその妻のラウラと共に暮らすようになる |
1963年 | ミルドレッドは、アメリカ合衆国司法長官のロバート・F・ケネディに手紙を書く。ケネディはアメリカ自由人権協会(ACLU)にケースを委ねる 6月にはラビング夫妻のケースをACLUの弁護士であるバーナード・コーエンが担当することになり、その数か月後には、公民権を専門に扱う弁護士であるフィリップ・ハーシュコプが加わり、両弁護士は無償で弁護にあたる 11月にバーナード・コーエンは、ラビング夫妻の有罪判決を無効にし、判決を破棄するようバージル判事に申し立てを提出する |
1964年 | ラビング夫妻は3人の子供たちとバージニア州に戻り、キングアンドクイーン郡の農家でひそかに暮らすようになる |
1965年1月22日 | バージル判事は申し立てを退ける |
1966年3月7日 | バージニア州最高裁はラビング夫妻の申し立てを是認するも、州から25年間立ち去る条項は過剰であるとして、判決の変更を求めて事件を州巡回裁判所に差し戻す |
1966年3月18日 | ライフ誌は、同誌のカメラマン、グレイ・ビレットによる、キングアンドクイーン郡の自宅とその周辺でのラビング夫妻の白黒写真付きで、(記者署名なしで)「結婚という犯罪」という記事を掲載 |
1966年3月 | ラビング夫妻対バージニア州裁判が米国連邦最高裁判所に上訴される |
1967年6月12日 | 最高裁判所は、すべての異人種間結婚禁止法を違憲であり、修正第14条の平等の保証に違反しているとする、全員一致の判決を下した |
毎年6月12日 | 現在6月12日は、最高裁判所によって異人種間の結婚が合法化された”Loving Day”として記念日となっている |