エピローグ
「2人の私がいるわ」
「マリアとして生きるには、カラスの名が重すぎるの」と、1970年にニューヨークで受けたインタビューで打ち明けるマリア・カラス。この時のカラスは既に数々の困難に直面してきたにもかかわらず、その瞳は驚くほどまっすぐで、「今まで正直に生きてきたわ」という言葉がすべてを物語っている。
少女時代
「生まれて初めてのウソよ」
1958年、ニューヨーク。TV番組のインタビューで、少女時代を振り返るマリア・カラス。ニューヨークで生まれ育った彼女の才能に最初に気付いたのは、母親だった。野心的でシャーリー・テンプルら子役の華やかな成功に憧れていた母は、カラスを歌手にすると決意する。
カラスと家族は1937年にギリシャに移住。13歳のカラスは、17歳からしか入学できないアテネ音楽院に年齢を偽って見事に合格する。そこで巡りあったのが、カラスが「誰よりも大切で家族のような存在だ」と説明するスペイン人の恩師エルビラ・デ・イダルゴだ。カラスはどんな生徒だったかとインタビューされたエルビラは、「完ぺきよ」と即答する。毎朝一番乗りで、帰るのは最後だったというカラスの努力が明かされる。ここでカラスは、ベルカント唱法を学ぶ。
キャリアの開花
「演技力のないオペラ歌手なんて問題外よ」
音楽院を卒業して、いよいよマリア・カラスの快進撃が幕を開ける。1952年のフィレンツェでは、まだふっくらとした少女の面影を残していたカラスが、1954年のスカラ座公演「ヴェスタの巫女」では、艶やかな美しさをたたえた大人の女性に変身していた。代表作の一つである「ノルマ」の1956年のニューヨーク公演では拍手が鳴りやまず、1958年のパリでは観衆が歌声はもちろんそのオーラに息をのんだ。
だが、この頃の本音を、1970年のインタビューでカラスは、「幸せな家庭を築いて子供を産みたかった」と告白する。最初は母、次は夫に歌い続けることを強制され、逃げられない運命だったというのだ。
激しいバッシング
「私の名前が泥まみれになった」
1958年1月2日、ローマ歌劇場。マリア・カラスは「ノルマ」の舞台で、1幕だけ歌って降板する。リハーサル中に喉をこわし、幕間で声が出なくなったのだ。その夜のチケットは完売、大統領も臨席していた。日頃から何事に対しても堂々と自分の意見を主張してきたカラスは、まるでその仕返しのように、ほとんどの新聞から「ワガママ」「傲慢」と非難される。2ヶ月後、リスボンでの「椿姫」の公演で、「さようなら、過ぎ去った日々よ」を歌うカラス。その歌詞は、カラスの現在の心情と怖いくらいに重なっていた。
さらに、逆風は続く。メトロポリタン歌劇場の支配人に、若手を起用して新しい演目をやりたいと提案したところ生意気だと激怒され、いきなり“クビ”を言い渡されたのだ。
オナシスとの出会い
「彼こそ探し求めていた男」
心身ともに弱っていたマリア・カラスがアリストテレス・オナシスと恋におちたのは、1959年、夏のことだった。その2年前から面識があり、夫のバティスタ・メネギーニと共に豪華クルージングに招待されたのだが、その頃のカラス夫婦は危機を迎えていた。お金や地位にしか興味が無く、妻の才能で得た名声でセレブ気取りの夫に幻滅したとカラスは書き残している。反対にオナシスの魅力については、「強烈な個性を持ち、誰でも夢中にさせる人たらし」と綴るカラス。さらに、クルーズから戻ったカラスが友人に「夫と別れます」と宣言した手紙が紹介される。だが、夫は離婚を拒絶し、二人は長い裁判闘争へと入っていく。
愛に満たされた日々
「この2ヶ月、口を開けるのは笑うため」
オナシスの愛に包まれたマリア・カラスはすっかり穏やかになり、声の質まで変わったと指摘される。カラスはインタビューで成長したのだと語り、「大勢の人に歌心を感じてほしい」と微笑む。カラスのその言葉を証明するかのように、1962年の「カルメン」の“恋は野の鳥”の歌声は深みを増している。
夫の監視のもと働き詰めだったカラスは、今では疲れるとすぐに休暇を取り、オナシスとのクルーズを楽しんでいた。1964年にバカンスで訪れたギリシャの小さな村の祭で、飛び込みで「カヴァレリア・ルスティカーナ」の“ママも知るとおり”を歌う貴重な映像が流れる。リフレッシュしたカラスは、ロンドンでエリザベス女王も臨席した「トスカ」で熱唱し、大成功を収める。
そして遂に、1965年3月、メトロポリタン歌劇場への7年ぶりの復帰が決まる。観客の熱狂はカラスをして「こんな舞台経験は初めて」と言わしめるほどだった。親友のグレース・ケリーに綴ったプライベートな手紙が、大舞台を終えた歌姫の心境を語る。
オナシスの裏切りとトップからの失墜
「耐えて生きなければ」
成功の美酒に酔ったのも束の間、再び体調を崩したマリア・カラスは、またも舞台で途中降板してしまう。喉に負担をかけない歌い方を模索するが、心身ともに消耗するばかりだ。オナシスとの愛に安らぎと救いを求めるカラスは、1968年1月の彼の誕生日に、愛を込めた手紙を送る。「永遠に、あなたと一緒にいたい」と─まさか、その9ヶ月後に、手ひどい裏切りが待っているとは思いもしないで。
その年の10月、オナシスは故ケネディ大統領の未亡人、ジャクリーン・ケネディと再婚したのだ。カラスはエルビラへの手紙に、「9年も共に過ごしたのに、新聞で知りたくなかった」と衝撃の“事実”を記している。
復活を目指して
「私の自叙伝は歌の中に綴られている」
1969年、歌を休んでいたマリア・カラスの映画デビュー作『王女メディア』の撮影が始まる。評判がよければ女優に転身したいと望んでいたが、映画はこれ1本で終わってしまった。そんな中、オナシスからの復縁の願いを受け入れるカラス。オナシスはカラスに、「あの結婚は過ちだった」と認めたのだ。
1973年のロンドンを皮切りに、カラスの“復帰ツアー”が始まる。オペラではなくコンサートだったが、ヨーロッパ、アメリカ、アジアをまわり、ラストは日本で、熱狂する観客に歌う喜びを取り戻すカラス。
だが、1975年、病に倒れたオナシスが死を迎える。カラスが書き留めていた、最後に会った時のオナシスの言葉が胸を打つ。
1977年9月16日の朝、カラスはパリの自宅で心臓発作のため息を引き取った。享年53歳。舞台復帰を目指して練習を続けていたが、叶わなかった。世紀の歌姫が書き残していた自叙伝は未完のまま、観客へのメッセージで途切れていた─「私にあるのは感謝のみです」。