圧倒的熱量を、体感。

三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実

禁断のスクープ映像、解禁! 自決1年前に何があったのか? 伝説の討論会を13人の証言者と紐解く衝撃のドキュメンタリー!!
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三島由紀夫没後50年 禁断のスクープ映像、遂に解禁!

INTRODUCTION

稀代のスーパースターと反逆のエリート東大全共闘のスリリングな直接対決 伝説の討論会の全貌を明かす 衝撃のドキュメンタリー!

禁断のスクープ映像、その封印が遂に紐解かれた! 稀代の天才作家・三島由紀夫と、血気盛んな東大全共闘の討論会の全貌だ。時は1969年5月13日。東大駒場キャンパスの900番教室に、1000人を超える学生たちが集まり、三島を今か今かと待ち受けていた。旧体制変革のためには暴力も辞さない東大全共闘のメンバーが、この討論会の首謀者だ。世界各国が政治の季節に突入していたこの頃、日本でも自分たちの手で国を変えようとする学生運動が激化していた。この年の1月には、安田講堂を占拠していた東大全共闘に対して機動隊が出動、ガレキと火炎瓶で迎え撃った学生たちが、機動隊の催涙弾と放水攻撃の前に敗北するという事件が起きていた。今の日本では想像もつかないほど、センセーショナルな嵐が吹き荒れていた時代なのだ。そんな危険きわまりない若者たちが、「三島を論破して立ち往生させ、舞台の上で切腹させる」と盛り上がり、異様なテンションが充満している敵地に、三島は警察が申し出た警護も断り、その身一つで乗り込んで行った。この頃の三島はノーベル文学賞の候補にもあがった世界的な文豪であると同時に、俳優、映画監督、舞台演出家としても活躍し、その一挙手一投足が常にメディアを賑わせる、まさにカルチャー界のスーパースター的存在だった。一方で、肉体を鍛え上げ民兵組織〈楯の会〉を率いる天皇主義者としても知られていた。どこを切っても正反対、ベクトルは真逆の三島と東大全共闘。果たして、言葉の銃で撃ち合い、論理の剣で斬り合う、スリリングな討論アクションによる死闘の行方は─?

稀代のスーパースターと反逆のエリート東大全共闘のスリリングな直接対決 伝説の討論会の全貌を明かす 衝撃のドキュメンタリー!

TBSだけが保管する、つまり〈世界にただ一つ〉の貴重な討論会の映像を、大きなスクリーンで観てもらいたいというプロデューサー陣の想いから、映画化が実現した。この討論会をより面白くより深く楽しむために、4人の識者に当時の時代背景、三島の文学的・政治的・社会的バックボーンとその人間性についての解説が依頼された。デビュー作「日蝕」で三島由紀夫の再来と称えられた小説家の平野啓一郎、この討論の翌年に東大に入学した神戸女学院大学名誉教授の内田樹、60年代の研究で知られる社会学者の小熊英二、三島にファンレターを出して以来交流のあった作家で僧侶の瀬戸内寂聴という錚々たる顔ぶれだ。さらに、東大全共闘随一の論客との呼び声高く、三島とドラマティックな舌戦を繰り広げた芥正彦を始めとする元東大全共闘のメンバー3人、三島の護衛のため自主的に900番教室に潜んでいた原昭弘を含む元楯の会一期生3人の生き証人が、今だからこそ話せる〈言葉と行動の裏側と真実〉を語り尽くす。そこへ、雑誌のカメラマンとして討論会に派遣されていた元新潮社カメラマン・清水寛、最前列で取材していた元TBS記者・小川邦雄の二人の目撃者と、三島と公私共に親しかった「平凡パンチ」の元編集者・椎根和が加わる。合計13人のインタビュイーが紐解くことによって、三島最大の謎である討論の翌年に決行された自決への想いまでもが炙り出されていく。また、この討論会を今こそ見るべき理由が明確となっていくのだ。ナレーターは、三島由紀夫原作の舞台「豊饒の海」で主演を務め、三島文学を愛する東出昌大。監督は900番教室で実際に学んでいた、東京大学教養学部卒業の豊島圭介。討論バトルに感銘を受け、自身も元東大全共闘の面々に勇猛果敢に切り込んだ。まばゆい輝きと圧倒的な熱量を放つ三島の言葉が学生たちを貫き、現代の私たちにも本気で生きる瞬間を体感させる、衝撃のドキュメンタリー。昭和から令和への貴重な遺産である〈伝説の討論会〉が、50年の時を経て永遠に蘇る─!

三島由紀夫 年譜

1925年(大正14年)1月14日

◎東京市四谷区(現・東京都新宿区)に、元農林省水産局長の父・平岡梓と母・倭文重の長男として生まれる。本名・公威(きみたけ)。幼時は祖母の膝元で育てられる。

1931年(昭和6年)

4月◎学習院初等科入学。詩歌、俳句に興味を持ち始める。

1937年(昭和12年)

4月◎学習院中等科進学。文芸部所属。

1938年(昭和13年)

3月◎初めての短編「酸模」を校内誌「輔仁会雑誌」に発表。

1938年(昭和13年)

3月◎初めての短編「酸模」を校内誌「輔仁会雑誌」に発表。

1940年(昭和15年)

◎校内誌「輔仁会雑誌」に「彩絵硝子」などを発表。

1941年(昭和16年)

9月◎「花ざかりの森」を同人誌「文芸文化」に発表、連載。初めて三島由紀夫というペンネームを使う。

1942年(昭和17年)

4月◎学習院高等科文科乙類(ドイツ語)進学。
7月◎同人誌を創刊。

1944年(昭和19年)

5月◎兵庫県で徴兵検査を受け、第二乙種に合格。
9月◎学習院高等科を首席で卒業し、天皇陛下より銀時計を拝受。
10月◎東京帝国大学法学部に推薦入学。初の短編集「花ざかりの森」刊。

1945年(昭和20年)

2月◎入隊検査の際に、軍医に誤診されて即日帰郷。
8月15日◎東京で終戦を知る。

1946年(昭和21年)

6月◎川端康成の推薦で「人間」に「煙草」を発表し、本格的に文壇に登場。

1947年(昭和22年)

11月◎東大卒業。「岬にての物語」刊。
12月◎高等文官試験に合格。大蔵省銀行局に勤務。

1948年(昭和23年)

9月◎創作に専念するため大蔵省退職。
11月◎「盗賊」刊。

1949年(昭和24年)

7月◎「仮面の告白」刊。

1950年(昭和25年)

6月◎「愛の渇き」刊。
7月◎金閣寺放火事件勃発。
12月◎「青の時代」刊。

1951年(昭和26年)

12月◎アメリカ、ブラジル、ヨーロッパを旅行。

1953年(昭和28年)

◎「三島由紀夫作品集」の刊行が始まる。

1954年(昭和29年)

6月◎「潮騒」刊。
12月◎「潮騒」で新潮社文学賞受賞。

1956年(昭和31年)

10月◎「金閣寺」刊。

1957年(昭和32年)

1月◎「金閣寺」で読売文学賞受賞。
3月◎「鹿鳴館」刊。

1958年(昭和33年)

6月◎川端康成の媒酌で画家杉山寧の長女・瑤子と結婚。剣道を始める。

1959年(昭和34年)

6月◎長女紀子誕生。
9月◎「鏡子の家」刊。

1960年(昭和35年)

3月◎映画『からっ風野郎』で主役を演じ、主題歌を歌う。
5~6月◎安保闘争。
11月◎「宴のあと」刊。

1961年(昭和36年)

1月◎「憂国」発表。

1962年(昭和37年)

5月◎長男威一郎誕生。
10月◎「美しい星」刊。

1963年(昭和38年)

9月◎「午後の曳航」刊。

1964年(昭和39年)

10月◎東京オリンピック開催。「絹と明察」刊。

1965年(昭和40年)

4月◎「憂国」を自らの監督・主演で映画化。
10月◎ノーベル文学賞候補に。

1966年(昭和41年)

1月◎「サド侯爵夫人」で文部省芸術祭賞受賞。
4月◎「憂国」刊。
6月◎「英霊の声」刊。芥川賞選考委員就任。

1967年(昭和42年)

4月◎陸上自衛隊に体験入隊。
12月◎航空自衛隊のF104戦闘機で超音速飛行を体験。

1968年(昭和43年)

3月◎学生19名と社会人1名と陸上自衛隊に体験入隊。
7月◎「文化防衛論」発表。
10月◎楯の会結成。

1969年(昭和44年)

5月13日◎東大全共闘討論会。
8月◎映画『人斬り』に出演し、切腹を演じる。
11月◎国立劇場の屋上で「楯の会」結成1周年パレードを行う。

1970年(昭和45年)

3月◎アメリカの「エスクァイア」誌の企画「世界の100人」に芸術家として日本よりただ一人選ばれる。
11月25日◎「豊饒の海」最終巻「天人五衰」の最終回原稿を編集者に残し、4人の楯の会隊員と自衛隊市ヶ谷駐屯地で決起、その後、東部方面総監室にて森田必勝の介錯で自決。
11月26日◎自宅で密葬。

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