衝撃の事件の史実は、こうだ。1819年8月16日、朝から7万人もの人々が、マンチェスターの南端にある聖ピーターズ広場に集まった。人々は晴れ着を着て陽気で好意的で、武器を持つ者はほとんどいなかった。なぜなら、これは民主主義を求めるデモと集会で、慎重に計画された平和的なものだったからだ。彼らの目的は、選挙権の要求と、外国から安価な穀物を輸入することを禁止した不当極まりない穀物法によって困窮していることを、政府と摂政王太子に訴えることだった。
その日の主役は、ウィルトシャーの裕福な農家出身のヘンリー・ハントだ。急進的な議会改革を熱心に提唱し、10万人以上が集まったロンドンでの集会で、ランカシャーから来ていた労働階級の改革者たちの心を動かし、マンチェスターでも演説することになったのだ。
政府側の論点は、集会が法にかなうものかどうかだった。治安判事たちは、集会は違法だとみなし、禁止しようと考えていた。そのため、北部地域の司令官ジョン・ビング卿の下、軽騎兵隊や歩兵隊を含む1000人もの兵力が召集された。さらに、地元の製粉工場主や店主の階級から結成された義勇軍と、400人の特別治安官も配置された。
ハントの演説が始まると、決められた手順に従って、一人の治安判事が暴動禁止法を読み上げたが、人々の歓声にかき消された。すると、動揺した判事は、軍隊と義勇軍を出動させる。最初に到着したのは義勇軍で、彼らは研いだばかりのサーベルを手に、群衆の只中へと見境なく馬を走らせた。人々が完全なパニックに陥った時、軽騎兵隊が到着した。証言によると、女性や子供たちまでが斬り付けられ、刺され、棒で打たれ、押し倒され、下敷きになって窒息し、押しつぶされたという。少なくとも、15人が殺され、600人以上が重傷を負ったのだ。
その後、ハントも含め演説者や集会の組織者たちは、陰謀罪と違法集会の罪で裁判にかけられた。摂政王太子は、民衆の不満に耳を傾けることも理解を示すこともなく、治安判事や軍部、義勇騎兵団に賛辞を送った。もちろん、世論は怒りを爆発させ、それが最終的には民主主義へとつながっていく。英国が普通選挙権を認めるまでに、ここからさらに1世紀以上もかかるのだが、その長い道のりは間違いなく、1819年のこの日のマンチェスターから始まった。