落下音

いい時代まで飛ばされて

内田春菊 (漫画家・俳優)

亡くなった人に綺麗な服を着せ、お化粧も施し、家族と一緒に生きているような写真を撮る文化が過去にあったのを少し前に知った。何枚か写真を見たが、もしかして言われなければ誰が死者なのかわからないかもしれない。
「違う違う、本当はこっち」と別の人を指差されたらそちらが死者だと思い込んでしまうかもしれない。

生きているものは動く。

写真に写るために長いことじっとしていなければいけない時代、南方熊楠は現代人がスマートフォンで撮ったような何気ない写真を何枚も残した。例えば山の中、上半身裸で腕組みしぽつんと立っている彼の前で、三脚を立て黒い布を被った写真家がじっと彼を見据えていたのだ。この映画の中にも、「え?これどうやって撮ったの?」という場面がいくつもある。時間も予算も少なかったと語る監督はいったいどれだけ深くて広いアイディアの泉なのだろう。

脚を失った男性が幻肢痛に苦しむシーンがある。部屋からうめき声が聞こえ、女中が彼を癒すため性的な行為をする。戦争で顔も声帯も四肢も失った青年を描いた映画「ジョニーは戦争へ行った」の、頭を何度も枕に打ち付けるジョニーを不憫に思った看護師が性的に慰めてしまうシーン(実はモールス信号を打っていた)が思い出される。
幻肢痛は私にもあり、脚ではなく肛門に起こる。がんの手術で人工肛門を造り、本来の場所は縫い閉じてしまったのだが、そこがお腹を壊した時のようにしくしく痛むのである。主治医に尋ねると彼は、「幻肢痛、ファントムペインですね」。幻肛門痛という言葉はまだないようだ。ある人にすすめられ「脳の中の幽霊(Ⅴ・S・ラマチャンドラン他・著)」という本を読むと、腕を失った兵士が、失くした手の平に、これまた「ないはずの」指が食い込む痛みで苦しむ話などが出てくる。医者である著者はさまざまな実験でそれらの仕組みを解き明かして行くのだが、ある章では脚を失った人が性行為の際ないはずの脚を感じる事例が書かれている。脳のどこに体のその部分が担当されているかを描いた、脳に寄り添う歪んだ人体の絵「ホムンクルス」では、脚の隣に性器があるらしい。廃屋の小火を隣の家の人が消してくれるかのごとく、脳内で感じる部分が隣どうしに位置する「性器」の刺激によって無いはずの「脚」が感じられるのなら、彼女の慰めは本当に効果があるのかもしれない。

使用人や部下の女性と無理やりでも関係したい男性は今も沢山いるが、不妊にさせ安心してまでそうしたい者は現代ではいないと思いたい。女中が子を宿し「立場の下剋上」が起こるのは許されない時代ということか。川のそばの暮らしの中で、洒落のきついハイテンションな遊びをしていた女子たちも、少しずつ聞き分けのよい女になっていってしまう。
ガルシア・マルケスの小説「百年の孤独」の中に、痩せすぎて洗濯物と一緒に飛ばされ、そのまま帰ってこない女が出てくる。浮遊した末、この映画のように時を超えて、もっとのびのび生きられる時代に降りてくればいいのに。
何かと気づいてしまう女は嫌われる。黙って従う女は好かれる。私たちは女であることをどう利用すればいちばん正しいのであろうか。

身体に刻み付けられた
ドイツ史

渋谷哲也 (日本大学文理学部教授 ドイツ映画研究)

映画『落下音』は20世紀ドイツの4つの時代を往還するスケールの大きな作品だが、実際に画面に映るのはある農村の一軒家とその住人の日常だけである。歴史的なトピックに直接言及されることはない。だが生きられた個人の歴史とは、その場で見聞きし肌に刻み付けられるもので成り立っている。とりわけ本作は少女のまなざしに寄り添い、スクリーン上で起こる出来事を彼女らの目線で「理解」することになる。そこには大文字の歴史から隠された生々しい生(性)と死の体験が渦巻くワンダーランドのようだ。

映画冒頭、暗い廊下で松葉杖をついて歩くエリカ。彼女は片足を失ったように見えるが実は足を紐で縛って真似ているだけである。その家の一室には実際に片足を切断して寝ている伯父フリッツがいる。彼女はその部屋に忍び込み、ベッドに裸で横たわる彼を見つめる。なぜ彼の足は失われたのか。戦争で負傷したのだろうか。時代は第二次世界大戦の頃である。だが事態はもっと複雑だった。フリッツがまだ青年の頃、第一次世界大戦が勃発した。男たちは徴兵されるが、彼の兵役を逃れるために両親がわざと若い息子を負傷させて「労災」を装ったのだ。彼が足を失った理由は戦争に行かないためだった。

歴史の中で抑圧されるのは、弱いもの、傷ついたもの、反逆するものたちだ。そこで隠されるのは性的な支配と搾取の関係性でもある。冒頭場面でエリカは伯父の身体に好奇のまなざしを向ける。膝下が切断された足はまるで投げ出された男性器を連想させる。彼女は手を伸ばし、伯父のへその汗に指をつけて舐める。観客はその塩からい味覚を思い出すだろう。障がい者と女性のセクシュアリティ、映画は社会の中で不可視にされてきた事柄を敢えて大写しにする。

映画は4つの時代を往還しながら断片的に描く。最初は1910年代、女性の参政権がまだ認められなかった時代である。農家に仕える女性たちは秘かに小作人男性の夜の相手も担わされる。だがその結果は避けねばならず彼女たちの身体はその処理をされる。足を失ったフリッツに慰めを与えるのも彼女たちの仕事だ。一家の母は神経質で絶えず吐き気に襲われている。子沢山の一家は娘の一人を他の農場に働きに出さねばならない。それは悲劇的な落下の結末を迎える。

第2の時代は映画冒頭のエリカのパートである。彼女を含む女たちが集団で入水するシーンが唐突に描かれる。第二次大戦末期、ドイツ軍が敗退し東方からソ連軍が侵攻する。公的にはドイツをファシズムから解放する歴史的出来事だが、現場ではソ連兵による民間人への略奪、暴力、レイプが横行した。女たちは自分の身を護るために水中に身を投じる。川は死の国への渡しであるとともに、外界の暴力から護られた場所としての二重の意味を担う。ところで戦時下のドイツ人の犠牲を語ることは、ナチスドイツの加害性を相殺する危険があるため公言されることはほとんどない。この映画での漠然とした描き方もそうした背景事情を反映しているのだろう。

集団入水する女性の一人は水中でウナギに噛まれて引き返し、命を取り留めた。それが第三の時代である戦後に成長し母親となったイルムである。彼女が台所でわざとウナギに手を嚙ませる場面が登場するが、これも男性器による攻撃のメタファーを思わせる。彼女の生きた時代は東西冷戦下の東ドイツである。東側が性的な自由を謳歌していたことは近年かなり知られるようになってきたが、映画の中でもイルムの娘アンゲリカは自身の性的衝動をあからさまに示し、叔父の性的な誘いにもひるまない姿が印象的だ。彼女は仲の良い従兄弟ライナーと水泳の訓練を受けており東独のスポーツ振興も垣間見られる。だがライナーは引っ込み思案でアンゲリカに想いを伝えられず、それが若者グループの中でからかいの対象となる。この欺瞞的な解放と裏腹の抑圧感の中でアンゲリカは苦悩し、結局川に入り境界線を越える。だがそれは対岸の西ドイツへの逃亡であり、川を渡れなかった母イルムとの鮮烈な対比となる。

第四の時代は現代であり、ここでは一見幸せな家族の中での少女の孤独が描かれる。両親は性的にオープンだが、二人の娘はどちらも空虚や死の衝動を抱えている。このパートは過去の時代の少女たちの姿を合わせ鏡のように再現する極めて象徴的なエピソードが多い。このように映画『落下音』では時代と個人が性と死をキーワードに緊密により合わさっている。だがそれは論理的な説明なしにあくまでも肌感覚で伝わる歴史なのだ。

戦争の歴史と傷跡を描くドイツ映画は数多いが、この映画は過去の諸作品とは全く違う。にもかかわらずドイツ映画としての明確な特徴を持つ。それは登場人物に共感しつつも過剰な感傷に陥らない批判的な距離が映画全体を貫いていることだ。映画『落下音』は歴史を描いている。だがそれは大文字の年代記ではなく、少女たちの網膜と肌に刻み付けられた生々しい記録の集成なのだ。

わたしは傷痕

和泉萌香 (映画文筆)

祖母や母が経験した痛みや、気持ちが悪いようなことを、まったく同じ出来事でなくても、同じ体積でわたしも体験するのだろうと思うことがある。科学的でないのは承知だが、これは血のつながりというものか。彼女たちの顔をみると、身をもってよく知っていると、なぜだか分からないが知っていると、考えるより前にそんな言葉が浮かぶ。わたしはそのように言う。きっと、存在する前からよく知っていたと。母のへその緒をつたって産まれたときからすでにわたしは白紙ではなく。そしてあなたがた母親を憎もうが愛していようが、あなたがたのことを取り憑かれたように知っているという感覚に襲われる。
「わたしが生まれるより先に、わたしの傷があった。わたしは傷に肉体を与えるために産まれた」というジョー・ブスケの言葉を思い出す。第一次世界大戦で負傷し半身不随となったブスケは病床で少女に恋をするうちに、彼女の特徴が彼自身の身体にあらわれてくるという幻想に襲われたのだとか。『落下音』も、肉体の同期、転位や、肉体にまつわる幻想を思わせる映画だ。幻肢痛という台詞が出てくるが、生贄の痛みにも満ちている。

四つの時代、四人の少女を中心とする人物たちの生きる世界が、まるで万華鏡のように展開される本作は、存在しなくなった者たちが生者と同じくらいに画面を占めた死の映画であるし、性も強くにおいたつ。だが、冒頭のシークエンスはとくに異質でぎょっとしてしまう。松葉杖をついて登場する少女がワンピースをまくったとき、「その生贄を変形すべく、しばりあげ、不規則な球面三面体」となったまるでベルメール的な片足があらわれたので驚いた。その少女エリカが忍びこむのは片足を失った叔父の部屋で、カメラは彼の顔かたちを映すよりも前に、切断された足を、へその穴というパーツをぶつ切りにとらえ、へそに溜まった水をエリカが指ですくいとろうとするシーンが続く。肉体の折り返し軸であり、性器のうえの、肉体の中心であり、子宮に浮かんでいたころの痕跡であるへそを改めてまじまじと眺めることも、変形してしまった肉体をとおして欲望に目覚める彼女の姿もへんに奇妙な官能…。産まれた瞬間に肉体に刻みつけられた傷痕、へそから出発した女たちの物語は、カメラの魔法を借りながら、傷のまわりでたゆたう眼差しの線を浮かび上がらせてゆく。家という子宮。記憶というへその緒。垂直に広がった時間のなかで、「記憶の巨大な家」のなかで、女たちの瞳がとらえた世界は言葉なしに積もりゆく。シリンスキ監督は、「決して誰にも話さない、死の床でさえも語らないような、小さな、微細な事柄についての内面的な視点を描きたかった」と語っており、物語を結びつけてしまっているのは性的な搾取と女たちのトラウマである。まだ少女とよぶべき、各時代の主人公である若い女性たちが、なかば死の世界もみえているかのように、霊視するかのように、異なる時代とのシンクロニシティを描き出すのも秀逸だ。子どもは大人よりもずっと賢く、いま生きている世界と同じように死の国も近く、境界は曖昧なのだ。映画の出口に近づいたころに、今度は女のものらしき、美しいへそが登場する。産まれながらにして、我々は肉体の中心に傷をもっている。親に斬られた片足も、自傷した指の付け根も、みていないはずの風景も、無駄だと言ったものも、それが人生だったとしても。それは存在し、すべてに輪郭があった。傷痕という出入り口をとおして浮かび上がる無言と無表情の物語の輪郭。この映画を見終わったあとから、幽霊の眼差しを探してしまう。

誰に言われたわけでも、学んだわけでもない、ただ確かな実感をもって、知っていたと思うことがある。あなたはわたしでわたしはあなただったかもしれない、デジャヴュとも違う、として感じることがある、取り憑かれたように、霊感を受けるように思うことがある。幼いころ、アルバムにみたモノクロ写真に映る無数の女性たちの顔を、思い出せなくても知っているとわたしも思うことがある。母たちが語ったこと、語らなかったことが何であれ、わたしに通っている血のなかで、それは確かにまばたきし続けているということができる。

Comment

(あいうえお順・敬称略)

各界著名人から
絶賛の声、続々!
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  • 映像に身を任せ、たゆたうように観ました。
    しばらくすると女の人生がいくつも浮かび上がっては消え、
    そして落ちていきました。
    誰かと一緒に遠い国へ旅に行ってきたような気分になり、
    余韻に長く時間を取られています。
    内田春菊

    (漫画家・俳優)

  • 良い映画は匂いと湿度を体感できる。
    この映画は常に肌にまとわりつくような
    湿ったにおいの不快感が永遠に続く。
    居心地が悪い。ぐらぐらする。
    不愉快なのに良いと思ってしまう。
    枝優花

    (映画監督・写真家)

  • ⼦どもの頃に抱いた、死への興味と疑問。
    ⼥性として、あるいは透明な存在として向けられる視線と、
    そのときに⽣まれた感情。
    4⼈の少⼥たちのまなざしは、
    からだが覚えているものに触れ、
    痛みの記憶を通して彼らとつながっていく。
    ⾒られたら、⾒返す。
    逆⽴ちすれば、空と地は⼊れ替わる。
    祈るような気持ちで願った。
    重⼒と時間という囚われの場所で、
    落下の意味が反転することを。
    小川知子

    (ライター)

  • 赤い服、にごった川、
    写真の中の同じ名前の女の子、ハエの羽音。
    違う時代の4人の主人公の周辺に連なる共通した記憶。
    スクリーンの中に常に感じる、
    歴史資料に残らなかった声を持たない女性たちの
    “不在”の存在をとらえる視線。
    それと同じだけ、鋭くこちらを睨むまなざし。
    この傷をないことにするなと言わんばかりに。
    これは美しくて血生臭い、今日にも続く私たちの足跡。
    他人事とは思えず、すぐに席を立てなかった。
    奥浜レイラ

    (映画・音楽パーソナリティ)

  • いくつかの時代を超えて共鳴しあう女性の記憶と感情が、
    たえず死臭の漂う幽玄の世界のなかで立ちのぼる。
    抑圧された耽美な欲望は
    臍に溜まった水の味のように甘酸っぱく、
    少女たちの無垢は獰猛なコンバインに
    暴力的に刈り取られてゆく。
    落下音とは、女性たちが
    重力に抗えぬまま打ちつけられた音、
    これまでほとんど聞かれてこなかった
    悲痛の叫びのことだったかもしれない。
    このあまりに美しい映画を、
    生涯できっと何度も見返すだろう。
    児玉美月

    (映画批評家)

  • 世代を超えて女から女へと受け渡されてゆく歴史や想いは決して消えないということは
    心底恐ろしくもあり悲願でもある。
    小林エリカ

    (作家、アーティスト)

  • 耳奥の毛がざわめいていた。ほどけない音響。
    風のような高い倍音が時間を走り、
    地鳴りのような低いドローンが空間を沈ませ、
    ヴァイナルのような擦過音がかろうじて記録する。
    不安は心理でなく振動だ。
    落下もまた、落ちた瞬間の音でなく、
    その痕跡だけが聞こえる状態をつくっている。
    それらは説明されるよりも前に、
    聴毛を揺らす周波として届けられる。
    あの農場は感情の周波数を増幅し、
    観客のからだをも共振板に変えてしまうらしい。
    損傷をおそれずに。
    五所純子

    (作家・文筆家)

  • 観光客など誰も来ないドイツの穀倉地帯。
    それ自体が迷宮のようなひとつの農場で、
    数世代の人々が不思議な物語を織りなす。
    ドイツではザンダース=ブラームスのように
    〈歴史に翻弄される女たち〉の
    年代記を骨太に描く女性監督が多かったが、
    監督シリンスキーはまったく異なる繊細な手法で
    〈女たちの歴史〉を表現した。
    死や性といったテーマ、水のイメージ、
    官能的な撮影と音響など、観る者の感性を揺さぶる作品。
    瀬川裕司

    (ドイツ文学者)

  • スクリーンの前から
    走って逃げ出したい気持ちに何度か襲われた。
    かつて生きていた世界が、歳を重ねたせいにして
    忘れようとしていたのに、目の前に現れたから。
    あの頃の、言葉にならない不安や許されない欲望、
    なにより、つまらない自分を終わりにしてしまいたい
    という
    恐ろしい気持ちの存在を、
    こんなにぴったり言い当てた映画に出会ったのは
    初めてかもしれない。
    長島有里枝

    (アーティスト、写真家、文筆家)

  • 文化遺産や特別なモニュメントには
    決してならない田園地帯の邸宅で、
    歴史に名を刻むことのない女たちがたしかに生きていた。
    かつてここにいた、今はもういなくなってしまった誰かと、
    いつかここからいなくなる私が通じ合う。
    普遍的であるのと同時に2020年代に
    作られるべくして作られた映画だと思います。
    野中モモ

    (翻訳者・ライター)

  • 静かな部屋の中で、
    少しずつ酸素が薄くなっていくような感覚。
    沈黙が重なり、観ているこちらまで閉じ込められていく。
    死に取り憑かれた少女たちの視線と、
    どこか歪んだ音楽が忘れられない。
    不穏で美しい映画体験でした。
    羽永

    (フォトグラファー/クリエイター)

  • 生きているからこそ、死を想う。
    時代と親たちに強制された道から、集合写真から、
    そして国境から、自ら”落ちて”いく女性たち。
    理解されないことを知っているその口は閉じられ、
    その抗いは歴史に残らない。
    でも否応なく存在してきたことを、
    彼女のたちの喜びと悲しみを、
    互いの視線が、記憶が、証明している。
    胸に焼きつく大傑作。
    松田青子

    (作家)

  • 歴史の大きなうねりに隠された、
    暗騒音のような女性たちの物語。
    見えないピアノ線に触れたかのように
    それを察知する少女たち。
    その一瞬の緊迫感に、打ちのめされてしまった。
    山崎まどか

    (コラムニスト)

  • 時を超えてなお、社会は女性たちを有形、
    無形の支配で縛り、トラウマを植えつけようとする。
    この映画を観ながら終始心がざわつくのは、
    その暴力が決して「過去」になっていないからだ。
    安田菜津紀

    (メディアNPO Dialogue for People副代表/フォトジャーナリスト)

  • 人間の不条理と不可解を
    体現してみせる俳優たちに導かれながら
    登場人物の皮膚の奥を覗き込んでいるようで眩暈がした。
    恐怖の「予感」は時空を越え
    “共有”されてきたという確信と同時に
    映画の底から湧き上がる磁力に揺さぶられる混乱の中、
    私の記憶のパズルが埋まる音が聞こえ我に返った。

    フィクションを極めた先に立ち昇る
    “実存”たちとの交信が今も続いている。
    ヤンヨンヒ

    (映画監督)

  • 海外の蚤の市で買った、
    知らない家族のアルバムを眺めているような作品だった。
    そこに他漂う記憶の香りが、ページを捲る
    わたしの指先に移ってしまわないか、少し不安になる。
    昔の人は、写真を撮られると、
    魂が抜き取られると信じていたらしい。
    「カシャッ」っとシャッターを切られたとき、
    カメラの中の反射鏡には、
    世界が反対向に映し出されている。
    そこに閉じ込められた一瞬の美しさと、蓄積した痛みが、
    光となって、わたしの瞳を何度も刺激してくる。
    Yusho Kobayashi

    (ファッションデザイナー)

  • 私たちが抱く観念、概念への問いは、
    けして人を不安にさせるものではなく、
    美しいものであるといわれている気がした
    和田彩花

    (詩と言葉のアーティスト)