映画『落下音』は20世紀ドイツの4つの時代を往還するスケールの大きな作品だが、実際に画面に映るのはある農村の一軒家とその住人の日常だけである。歴史的なトピックに直接言及されることはない。だが生きられた個人の歴史とは、その場で見聞きし肌に刻み付けられるもので成り立っている。とりわけ本作は少女のまなざしに寄り添い、スクリーン上で起こる出来事を彼女らの目線で「理解」することになる。そこには大文字の歴史から隠された生々しい生(性)と死の体験が渦巻くワンダーランドのようだ。
映画冒頭、暗い廊下で松葉杖をついて歩くエリカ。彼女は片足を失ったように見えるが実は足を紐で縛って真似ているだけである。その家の一室には実際に片足を切断して寝ている伯父フリッツがいる。彼女はその部屋に忍び込み、ベッドに裸で横たわる彼を見つめる。なぜ彼の足は失われたのか。戦争で負傷したのだろうか。時代は第二次世界大戦の頃である。だが事態はもっと複雑だった。フリッツがまだ青年の頃、第一次世界大戦が勃発した。男たちは徴兵されるが、彼の兵役を逃れるために両親がわざと若い息子を負傷させて「労災」を装ったのだ。彼が足を失った理由は戦争に行かないためだった。
歴史の中で抑圧されるのは、弱いもの、傷ついたもの、反逆するものたちだ。そこで隠されるのは性的な支配と搾取の関係性でもある。冒頭場面でエリカは伯父の身体に好奇のまなざしを向ける。膝下が切断された足はまるで投げ出された男性器を連想させる。彼女は手を伸ばし、伯父のへその汗に指をつけて舐める。観客はその塩からい味覚を思い出すだろう。障がい者と女性のセクシュアリティ、映画は社会の中で不可視にされてきた事柄を敢えて大写しにする。
映画は4つの時代を往還しながら断片的に描く。最初は1910年代、女性の参政権がまだ認められなかった時代である。農家に仕える女性たちは秘かに小作人男性の夜の相手も担わされる。だがその結果は避けねばならず彼女たちの身体はその処理をされる。足を失ったフリッツに慰めを与えるのも彼女たちの仕事だ。一家の母は神経質で絶えず吐き気に襲われている。子沢山の一家は娘の一人を他の農場に働きに出さねばならない。それは悲劇的な落下の結末を迎える。
第2の時代は映画冒頭のエリカのパートである。彼女を含む女たちが集団で入水するシーンが唐突に描かれる。第二次大戦末期、ドイツ軍が敗退し東方からソ連軍が侵攻する。公的にはドイツをファシズムから解放する歴史的出来事だが、現場ではソ連兵による民間人への略奪、暴力、レイプが横行した。女たちは自分の身を護るために水中に身を投じる。川は死の国への渡しであるとともに、外界の暴力から護られた場所としての二重の意味を担う。ところで戦時下のドイツ人の犠牲を語ることは、ナチスドイツの加害性を相殺する危険があるため公言されることはほとんどない。この映画での漠然とした描き方もそうした背景事情を反映しているのだろう。
集団入水する女性の一人は水中でウナギに噛まれて引き返し、命を取り留めた。それが第三の時代である戦後に成長し母親となったイルムである。彼女が台所でわざとウナギに手を嚙ませる場面が登場するが、これも男性器による攻撃のメタファーを思わせる。彼女の生きた時代は東西冷戦下の東ドイツである。東側が性的な自由を謳歌していたことは近年かなり知られるようになってきたが、映画の中でもイルムの娘アンゲリカは自身の性的衝動をあからさまに示し、叔父の性的な誘いにもひるまない姿が印象的だ。彼女は仲の良い従兄弟ライナーと水泳の訓練を受けており東独のスポーツ振興も垣間見られる。だがライナーは引っ込み思案でアンゲリカに想いを伝えられず、それが若者グループの中でからかいの対象となる。この欺瞞的な解放と裏腹の抑圧感の中でアンゲリカは苦悩し、結局川に入り境界線を越える。だがそれは対岸の西ドイツへの逃亡であり、川を渡れなかった母イルムとの鮮烈な対比となる。
第四の時代は現代であり、ここでは一見幸せな家族の中での少女の孤独が描かれる。両親は性的にオープンだが、二人の娘はどちらも空虚や死の衝動を抱えている。このパートは過去の時代の少女たちの姿を合わせ鏡のように再現する極めて象徴的なエピソードが多い。このように映画『落下音』では時代と個人が性と死をキーワードに緊密により合わさっている。だがそれは論理的な説明なしにあくまでも肌感覚で伝わる歴史なのだ。
戦争の歴史と傷跡を描くドイツ映画は数多いが、この映画は過去の諸作品とは全く違う。にもかかわらずドイツ映画としての明確な特徴を持つ。それは登場人物に共感しつつも過剰な感傷に陥らない批判的な距離が映画全体を貫いていることだ。映画『落下音』は歴史を描いている。だがそれは大文字の年代記ではなく、少女たちの網膜と肌に刻み付けられた生々しい記録の集成なのだ。