マリオ・ドラディが語る更なる裏側
イタリア、ヴェローナにあるマリオ・ドラディ(当時のマネージャー)の自宅には巨大な記録保管室があり、カラカラ浴場での“三大テノール”競演に関するあらゆる資料が保管されている。「ああいうイベントは、簡単に繰り返せるものではない。ワールドカップ・サッカーが一役買ってくれることは分かっていた。でも実際に3人の競演を可能にしたのは、ホセ・カレーラスの闘病生活だったんだよ。そして、伝説になる大きな要因は、印象の異なるこの3人がライバル関係にあったにも関わらず同じ舞台に立ったということだ。」とドラディは語る。
「パヴァロッティは最年長で、恐らく当時3人の中で最も有名だった。エルメスのスカーフと、白いハンカチがトレードマーク。叙情的で、天使のような声は、最高音でも揺らぐことがなかった。」「ドミンゴは知性派メンバー的な存在で、きらびやかな高い声というより、神秘的な男らしい声だ。ドミンゴの愛想の良さに観客は自然に惹かれていたよ。」「カレーラスは、最もドラマティックで、恐れ知らずだった。」とドラディ。
競演のきっかけの更なる理由としては、3人とも、コンサートの収益を慈善事業に寄付できればと考えていた。カレーラスとパヴァロッティは、白血病患者を支援する基金に、一方ドミンゴは、祖国メキシコで1985年に起こった壊滅的な地震の被災者たちを支援していた。被災者との親しい関係は現在まで続いている。
そして、3人が舞台に立つために必要だったのが選曲とどのように歌うかの編成であった。そこで、ハリウッドで活躍する作曲家ラロ・シフリンとの出会いが、最も重要な鍵となる。シフリンは語る。「3人のテノール歌手が一緒に舞台に立つオペラなんてこれまではなかった。だから特別に作り上げなければならなかったんだよ。取り掛かりはすごく難しかった。とても慎重なアプローチを取ったんだ。」と。