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イギリス、ロンドン生まれ。『ヴィック・ムニーズ ごみアートの奇跡』(10)でアカデミー賞®長編ドキュメンタリー賞に、『津波そして桜』(11・未)で同賞短編ドキュメンタリー賞にノミネートされ、才能あふれるドキュメンタリー映画監督として高く評価される。その他の作品は、『アーミッシュ ~禁欲教徒が快楽を試す時~』(02・未)、『ブラインドサイト ~小さな登山者たち~』(06)、『カウントダウンZERO』(10)など。
ドイツ・デュッセルドルフ生まれ。大学で医学と哲学を専攻するが途中で転向し、画家を志して21歳でパリに移住、彫刻を学ぶ。帰国後、ミュンヘンのTV&フィルム大学に入学。映画誌などに映画批評を執筆する傍ら、1967年より映画監督の活動をスタート。短編映画を製作した後、『都市の夏』(70)で長編監督デビュー。『都会のアリス』(74)『まわり道』(75)『さすらい』(76)が、「ロードムービー三部作」と呼ばれて高評を得て、ニュー・ジャーマン・シネマの旗手として一躍世界的に名を馳せる。『ことの次第』(82)でヴェネツィア国際映画祭金獅子賞、『パリ、テキサス』(84)ではカンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞。さらに、『ベルリン・天使の詩』(87)でカンヌ国際映画祭監督賞を、その続編『時の翼にのって/ファラウェイ・ソー・クロース』(93)ではカンヌ国際映画祭審査員グランプリを受賞する。音楽ドキュメンタリー『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』(99)が世界的に絶賛され、『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』(11)がアカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされるなど、ドキュメンタリー映画でもその手腕を発揮。その他の主な長編監督作に、『アメリカの友人』(77)『ハメット』(82)『夢の涯てまでも』(91)『リスボン物語』(94)『愛のめぐりあい』(95・ミケランジェロ・アントニオーニと共同監督)『エンド・オブ・バイオレンス』(97)『ミリオンダラー・ホテル』(00・ベルリン国際映画祭審査員賞)『アメリカ、家族のいる風景』(05)『それぞれのシネマ』(08・オムニバス)『もしも建築が話せたら』(14・オムニバス/製作総指揮も兼ねる)『誰のせいでもない』(15)などがある。
1996年、レコードプロデューサーのニック・ゴールド、プロデューサーでギタリストのライ・クーダー、そしてバンドのリーダー、フアン・デ・マルコス・ゴンサレスが、キューバ人とアフリカ人のコラボを録音しようとハバナに集まったのが、すべての始まりだった。アフリカ人の渡航計画が中止になり、1930~50年代におけるキューバの伝統的な「ソン」のメロディーを、オリジナルの演奏者で再現するという新たなアイディアが持ち上がったのだ。
名高いベテランたちが集められたが、その多くはすでに現役を引退していた。イブライム・フェレールはヴォーカリストとしてのキャリアを捨てて、生活のために靴磨きをしていた。著名なピアニスト、ルベーン・ゴンサレスは、何年も前にシロアリが楽器を破壊してから、ピアノを弾いていなかった。一人また一人、音楽界のレジェンドたちが集められた。
こうして、バンド“ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ”が生まれ、魔法の即興セッションが録音された。「あのアルバムを作ることは、多くの参加ミュージシャンにとって、人生を一変させる転機だったわ」とプロデューサーのクリスティン・コーウィンは振り返る。さらに、忘れられた時代の温かく刺激的で、ソウルフルな音楽を奏でる彼らの姿に迫った映像が、ドキュメンタリー映画『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』として公開され、世界中にセンセーションを巻き起こした。
最初のレコーディングから約20年の時を経て、新旧のメンバーからなる“ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ”は、「アディオス・ツアー」と銘打った、最後の世界ツアーを行い、ステージでの活動に終止符を打つことを宣言した。この重要な章を閉じるに当たり、バンドのマネージメントを手掛けるモントゥーノ事務所は、ドキュメンタリー映画の製作を企画、メンバーも最高のタイミングだと同意した。新しいドキュメンタリーは、ミュージシャンたちのキャリアを映し出すための素晴らしいチャンスだ。「ミュージシャンたち自身が、この映画に彼らの伝説を残したいと願っていたわ」とコーウィンは指摘する。「私たちは若い世代の人たちに彼らの音楽を紹介することや、この素晴らしいストーリーに若い世代がどのように反応するかを見ることに興奮を覚えているわ」
「キューバ文化に僕たちが与えてきたものを誇りに思うよ」と、バンドのリーダー、ファン・デ・マルコスは言う。「そして、僕らがキューバの若い世代のミュージシャンたちに影響を与えていることを誇りに思うね。彼らはヒップホップ、ジャズの製作に、自分のルーツを使っているよ。すべてがキューバ音楽と混ざり合っている。」
ツアーは最後だが、ミュージシャンたちのキャリアはまだまだ終わっていない。「音楽は僕の体を流れる血液さ」と、ギタリストでシンガーのエリアデス・オチョアは語る。「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブは、人生の一部だ。グループとしてステージに上がることはもうないけれど、ブエナ・ビスタのスターたちは、いつも世界のどこかで演奏することだろう。」
ヴォーカルのオマーラ・ポルトゥオンドも同意する。「自然の一部なのよ。海や空気や雲や雨みたいに。何もそれを変えられないわ。グループはこのままでは存続しないけれど、私たちはみんな演奏し続ける。そして一緒に音楽を作り続けるわ」
最後の世界ツアーでは、ホワイトハウスで特別なコンサートを開催することになった。オバマ元大統領は、「ほとんど20年間、このグループは、キューバ人とアメリカ人の強い絆のシンボルだった。友情、文化、そしてもちろん音楽の絆だ」と彼らを称える。
本作には、“アディオス・ツアー”だけではなく、1997年にリリースされたアルバムの予期せぬ成功、グラミー賞受賞、それに続くバンドやソロでのツアーの様子も収められている。ツアーでは行く先々で、観客がブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブに恋をした。酔わせるようなリズムによってだけでなく、アンサンブルを織りなすシニア各個人の情熱的な人柄のためだ。「それぞれのメンバーやストーリーを知るようになって、長いキャリアを通して培われた彼らのユーモアのセンス、知恵、気高さに、本当に驚いたわ。年をとっても演奏に対する情熱が衰えることはなかったの」とコーウィンは絶賛する。
さらに、バンドのメンバーたちは、若い頃に遡って自分の音楽的ルーツを明かす。1907年に生まれたコンパイ・セグンドは、タバコ工場で働きハバナ行きの費用を貯めた。彼はその地で伝説の「ソン」デュオ、「ロス・コンパドレス」を結成したのだ。グアヒーラの伝説的人物であるエリアデス・オチョアは、子供の頃はサンティアゴ付近の遊郭でギターを弾いて生活費を稼いでいた。オマーラ・ポルトゥオンドは、4歳の頃に父親の膝の上でクラシック・ボレーロの歌を学んだと回想する。
また、この映画でもう一つ重要な要素は、ミュージシャンの人生と共に、キューバの歴史が語られる点だ。「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブに参加する前と後の彼らのキャリアを記録することは、全く新しい領域に入るようなことで、多くの発掘作業をしなければならなかった。彼らの事務所であるモントゥーノだけでなく、バンドのメンバーや、彼らの家族、そしてその他多数の報道機関から大量の古い記録を手に入れた。また、キューバにいる古記録保存の専門家を通して、政府のメディアの中から良いクリップを探し出してもらったりもした。それは圧倒的な作業で、忍耐と献身を要したが、日の目を見る前の彼らの映像を見つけ出すことは、このストーリーを語る中で重要な一部だった」と、プロデューサーのザック・キルバーグは説明する。
ミュージシャンたちのキャリアが、数十年に渡って交差してきたことも記録映像でわかる。オマーラとイブライムとの50年間に渡る友情は、1960年代に野外ステージショーで一緒に演奏した時から始まった。またあるコンサート映像では、コンパイがエリアデスの横で、1997年のアルバムで最も人気を集めた曲のひとつである「チャン・チャン」を演奏している姿が見られる。
さらに、ヴィム・ヴェンダースが撮影した1997年に収録されたドキュメンタリー映画の未公開映像も採用された。アムステルダムで開催された最初のライブの前に、バンドがリハーサルをする姿を収めている。その映像では、再会したミュージシャンたちが、スタジオでの最初のセッションで起こった魔法のような瞬間を再現しようと試みる中で、スタイルや性格の違いがぶつかり合う様子が率直に映し出されている。
本作の製作が始まった2015年は、キューバの文化が変わりつつあった年だ。アメリカが旅行規制を緩め、アメリカやその他の国々からの映画製作スタッフは、これまで以上にキューバに行きやすくなった。「できるだけミュージシャンたちに同行して、彼らの実際の活動の場であるツアーや、もちろん、母国のキューバでの彼らを追いかけた」とキルバーグは振り返る。
それは、18ヶ月の間に小規模のスタッフチームを、何度もキューバに送ることを意味した。けれどもその努力の甲斐は十分あったと、キルバーグは語る。「サンティアゴで、オマーラとエリアデスの驚くほど親密なパフォーマンスを収録することができた。そして、ハバナにあるカール・マルクス劇場で行われた、ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブによる最後のパフォーマンスの収録は、素晴らしい経験だったよ。」
偉大なキューバの歌姫で、キューバの芸術大使。10代の頃、有名なキャバレー・トロピカーナで、ダンサーとしてキャリアをスタートした。姉のアイデーと並んで踊った他、姉妹でロス・ロキバンブラというグループとも一緒に歌った。最初のソロ・アルバム「Magia Negra」を1959年に収録、1967年にソロ活動を始めた。また、注目を集めていたオルケストラ・アラゴンとも一緒に歌い、彼らと数枚のアルバムを収録し、70~80年代にかけて世界中をツアーして回った。その後、ブエナ・ビスタでの成功により、世界のあちこちでツアーやフェスティバルに出演する。ワールド・サーキット・レコードと収録した二つのアルバム、「Buena Vista Social Club Presents Omara Portuondo」(00)と「Flor de Amor」(04)以外にも多くのアルバムを収録。さらに、ソロ・アルバムの「Gracias」でラテン・グラミー賞を受賞する。2011年には、ピアニストのチューチョ・バルデスと共に、「Omara & Chucho」をリリースし、高い評価を受けた。2015年、スペインの歌手をゲストに迎えて、「85 Tour」と呼ばれる世界ツアーを敢行した。
キューバの音楽シーンで、50年以上にも渡って重要な位置を占め、オルケスタ・リベルサイド、オルケスタ・クバーナ・デ・ムジカ・モデルナ(キューバ現代音楽楽団)、そして有名なキャバレー・トロピカーナで、あらゆるキューバのスターと演奏し、ヨーロッパやラテンアメリカを広くツアーした。1996年にハバナで行われ、今では伝説となったワールド・サーキット・レコードのレコーディングで、「Afro-Cuban All Stars A Toda Cuba Le Gusta」、「Buena Vista Social Club」、「Introducing Rubén González」の3つの画期的なアルバムのすべてに出演する。ブエナ・ビスタの多くのアルバムになくてはならない存在で、イブライム・フェレールのツアーバンドの重要メンバーとなった。 2004年、ソロ・アルバムとしてのデビュー盤「Buena Vista Social Club Presents Manuel Guajiro Mirabal」をリリースし、グラミー賞にノミネートされた。 キューバの音楽シーンで、50年以上にも渡って重要な位置を占め、オルケスタ・リベルサイド、オルケスタ・クバーナ・デ・ムジカ・モデルナ(キューバ現代音楽楽団)、そして有名なキャバレー・トロピカーナで、あらゆるキューバのスターと演奏し、ヨーロッパやラテンアメリカを広くツアーした。1996年にハバナで行われ、今では伝説となったワールド・サーキット・レコードのレコーディングで、「Afro-Cuban All Stars A Toda Cuba Le Gusta」、「Buena Vista Social Club」、「Introducing Rubén González」の3つの画期的なアルバムのすべてに出演する。ブエナ・ビスタの多くのアルバムになくてはならない存在で、イブライム・フェレールのツアーバンドの重要メンバーとなった。 2004年、ソロ・アルバムとしてのデビュー盤「Buena Vista Social Club Presents Manuel Guajiro Mirabal」をリリースし、グラミー賞にノミネートされた。
1970年、イギニオ・ムレンスが率いるバンド、セレナータ・ユムニナでキャリアをスタート。3年後に解雇され、シエンブラ・クルトゥラルのツアーに参加した。このバンドは後にグルーポ・ヤラビと改名。最終的にハバナに落ち着き、オルケスタ・クバーナ・デ・クエルダスの定着メンバーになった。その後、セリーナ・ゴンサレスのバンドであるグルーポ・カンポアレグレに音楽監督として参加した。同時に、グルーポ・マングアレとも出演し、両バンドとレコーディングやツアーをした。アフロ・キューバン・オールスターズとブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブでの貢献でよく知られる。両バンドは多くの賞を受賞し、1998年に「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」のアルバムで受賞したグラミー賞もその一つ。ブエナ・ビスタ企画の後は、ソロ活動で自身のバンドと一緒に世界をツアーした。1999年に最初のソロ・アルバム「Havana Café」、2003年には「Barbarito Torres」をリリースした。
キューバ東部のサンティアゴ近くの田舎町出身。ルーツはグアヒラ(キューバのカントリーミュージック)にあり、トレードマークであるカウボーイハットを被り、好んで黒を着ることから、「キューバのジョニー・キャッシュ」と呼ばれる。ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブのセッションでは独特なギター演奏をし、「El Cuarto de Tula」ではヴォーカルを務め、「El Carretero」では自らのグアヒーラを披露した。ブエナ・ビスタ関連外では、1998年のアルバム「CubAfrica」でマヌ・ディバンゴと共演し、1999年にはアルバム「Sublime Ilusion」をリリース。このアルバムはライ・クーダーとの特別コラボレーションで、グラミー賞の最優秀トロピカル・ラテン・アルバム部門にノミネートされた。2010年には、ワールド・サーキット・レコードからアルバム「AfroCubism」をリリース。このアルバムでは、マリ共和国のミュージシャンたちと共演した。2010年から2011年にかけてアフロキュービズム・ツアーが行われ、ヨーロッパ、カナダ、そしてアメリカを回った。このアルバムは、2012年のグラミー賞で、最優秀ワールド・ミュージック部門にノミネートされた。
1950年代にはバンドリーダーであるパチョ・アロンソのもとでリードヴォーカルを務め、伝説的存在のベニー・モレーのもとでも歌い、ロス・ボクーコスのリードヴォーカルも務めたが、キャリアの大部分は失望の連続だった。ソンとボレーロの名歌手として、もっと高い評価を受けるべきだったが、ブエナ・ビスタのセッションが始まる頃は年金生活をし、靴磨きで生活費を補っていた。ボレーロ歌手が必要だということで、フアン・デ・マルコス・ゴンサレスに誘われ、瞬く間にブエナ・ビスタの企画で重要な存在となった。最初のソロ・アルバム「Buena Vista Social Club Presents: Ibrahim Ferrer」は1999年にリリースされた。2003年に「Buenos Hermanos」(前のアルバムと同様ライ・クーダーがプロデュース)がリリースされ、グラミー賞を受賞したが、アメリカへの入国を拒否され、賞を受け取りに行くことはできなかった。2005年のヨーロッパツアー終了後に亡くなり、最後のアルバム「Mi Sueño(私の夢)」はその翌年にリリースされた。
キューバで大きな影響力を持つベーシストの家系に生まれた。1940年代に、叔父イスラエル(別名カチャーオ)と父オレステス(別名マチョ)が、アルカーニョのバンドで演奏しながら、マンボを作り出した。キューバの国立交響楽団とはクラシックを、イラケレとはキューバのジャズとポップを、ロス・サフィーロスとはドゥーワップを、そしてロス・アミーゴスとはデスカルガを演奏した。その温かみのある演奏は、ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブのオリジナル・スタジオ・アルバムの一曲を除いて、全ての曲で聞くことができる。以来、関連ツアーやレコーディングすべての常連になっている。 ワールド・サーキット・レコードによる実験的なアルバム「Cachaito」(01)は、ブエナ・ビスタシリーズの中で最高の作品だと、多くの批評家に見なされている。イブライム・フェレールとルベーン・ゴンサレスそれぞれのバンドの基盤でもあり、晩年にはブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブを盛り上げた。2009年にハバナで、76歳で死去した。
キューバの中央部にある都市サンタ・クララ出身。シエンフエゴスの地でピアノを学び、1941年にハバナへ移住してから本格的に音楽に取り組むようになる。名だたるアーティストたちのバックを務め、クババーナやリベルサイド、50年代にはオルケスタ・アメリカやチャチャチャの創始者エンリッケ・ホリーンのグループの一員などとして活躍した。60~70年代にかけてジャズ系のコンボ、ラウンジ風のピアノ・ミュージック。デスカルガ(キューバン・ジャム・セッション)等の録音を残しているが、その後一線から退く。「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」と同時期にニック・ゴールドのプロデュースでリリースされたソロ・アルバム「イントロデューシング…」で再び注目された。2003年にハバナで84歳で死去した。
キューバ東部の山間部に位置するシボネイに生まれる。本名フランシスコ・レピラード。15歳の頃からサンティアーゴ・デ・クーバでクラリネットを通じて音楽の基礎を学んだ。1940年代に友人と2人で「ロス・コンパドレス」というユニットを結成し、2人の仲間(コンパイ)のうち、低音の第二声(セグンド)を担当した事から、コンパイ・セグンドと名乗るようになった。ギター、アルモニコ(コンバイ考案のギター状楽器)の奏者として頭角を表したが、ロス・コンパドレスを脱退しソロ活動に移行してからは、次第に表舞台に出なくなり一時は葉巻職人として生計を立てる。しかし、90年代にブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブに参加し、その中心的な存在となると、セグンド自身も世界的なスターとなった。90歳を超えてからの活躍はカストロ議長やヨハネ・パウロ2世にも讃えられ、彼自身も彼の祖母と同じ115歳まで生きると予言していたが、2003年に腎不全により95歳で逝去した。
ハバナのプエブロ・ヌエボ・バリオ生まれ。キューバ音楽史において著名なヴォーカリスト、マルコス・ゴンサレス・マリウスを父に持ち、音楽に囲まれて育つ。彼はイグナシオ・セルバンテス音楽学校で、古典的なトレス・ギターを学ぶ。その後、ロンドンのゴールドスミス・カレッジで、オーケストラ・コンダクションとコンテンポラリー・ハーモニーを学んだ。元々アメリカとイギリスのロックのファンで、伝統的なソンを愛好する学生たちの集まりから始まったバンド、シエラ・マエストラのメンバーとして活動。スペイン語の他に、英語・ロシア語等にも堪能で、ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ結成のきっかけとなったライ・クーダー来訪の際のコーディネーターや、グループのオーケストラの音楽監督として活躍。4世代に渡るアフロ・キューバン音楽の音楽伝統を体現するセッション・バンド「アフロ・キューバン・オール・スターズ」のリーダーも務める。
1917年生まれ。ベニー・モレー、ベボ・バルデス、リベルサイドなど、多くのグループでレコーディングに参加。コンパイ・セグンドのグループ、ムチャーチョスにも参加しており、コンパイとは古くからの盟友。グアテマラの歌手グループEl Mentirosoの創始者である。作曲家としてもキューバのいくつかの有名曲を書いている。2006年にハバナで88歳で死去した。
1940~50年代に活躍した人気歌手の一人。ソンとボレーロを得意とする。アドルフォ・グスマン、フリオ・クエバ、ロベルト・ファス、ソノーラ・マタンセーラなどでリード・ヴォーカルを務める。2000年に79歳で死去した。
ピナルデルリオに生まれ、国立芸術院で音楽を学んだ。地元のバンドでトロンボーンを弾き始め、1979年にハバナに移り、有名な女性四重唱グループであるロス・ダイーダと演奏し、一緒にヨーロッパ、ラテンアメリカ、そしてアフリカをツアーで回った。ワールド・サーキット・レコードによるブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブとアフロ・キューバン・オールスターズのレコーディングや、イブライム・フェレール、ルベーン・ゴンサレス、そしてオマーラ・ポルトゥオンドのソロ・アルバムでも演奏した。またかつて、ルベーン・ゴンサレスの音楽監督を務め、1997年以降、ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブの様々な企画で幅広いツアー活動をしている。
著名な作曲家でトレス(キューバの伝統的なギター)の名人であるイサク・オビエドの息子として1938年にキューバのハバナで生まれ、幼い頃からトレスを演奏し、家族の伝統を引き継いだ。1949年に最初のグループを結成し、このトリオと一緒にハバナの街頭で演奏した。1954年にはエンリケ・ペレスのグループに加わった。1981年にオルケスタ・レベに加わり、それから14年間このバンドと演奏を続けて幅広いレコーディングを行い、世界中をツアーして回った。1955年、自らのグループであるパピ・オビエド・イ・ス・ソネロスを結成。1996年にハバナにあるICAICスタジオで、デビューアルバム「Encuentro Entre Soneros」を収録、キューバの伝統であるソンのサウンドを見事に紹介している。2002年、パパ・ノエルと共に、自身のアルバム「Bana Congo」をリリース。また2009年から2016年までの間、オルケスタ・ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブに参加してツアーで世界中を回った。
カトゥーラ音楽院で8年間学び、1982年にわずか14歳という若さで、父親もメンバーだったオルケスタ・エストレージャス・クバーナスでチェロを弾き始めた。プロとしてのキャリアは、フルート奏者であるリチャード・エグエスの楽団に参加した1988年に始まった。1998年、「ラ・チャランガ・フォーエバー」というバンドの音楽監督になった。2000年、ホットサルサのグループ、ペドロ・パブロ・イ・ラ・レバンバランバを結成。2008年、オルケスタ・ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブに参加して以来、ずっとツアーに参加している。
ハバナのグイネス生まれ。わずか10歳の時に音楽を学び始め、1970年には国軍の兵役についた。4年後、FARという名のグループを結成して8年間活動した後、イグナシオ・セルバンテス音楽学校で音楽を学んだ。1982年にロス・レジェス73というグループに参加し、6年間世界をツアーして回りながらレコーディングをした。また、アダルベルト・イ・ス・ソンで11年間活動し、彼らと8つのアルバムを収録した。1990年代にはキューバのEGREM国営レコード会社で働いた。1988年には企画「クバニズモ」に参加し、ツアーでヨーロッパやアメリカ合衆国を回った。2001年から2005年まではイブライム・フェレール・グループのメンバーとして活動し、2008年にはオルケスタ・ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブに参加して世界中をツアーした。
キューバ生まれ。ヘラルド・グアンチェ音楽院でピアノを学んだ。また、アマデオ・ロルダン音楽院でクラシックピアノを学び、1999年には国際ジャズコンクールJo-jazz-99で優勝した。キューバのバンドで活動し、テレビにも初出演した後、カナダのラテン・ストリート・グループのメンバーとして8ヶ月間活動した。その後、パウロ・FG・イ・ス・エリテに参加し、彼らと一緒にヨーロッパとラテンアメリカをツアーした。2002年に最初のソロ・アルバム「En la Luna」をリリース。同作は、2002年のクバディスコ・アワードで最優秀レコーディング賞を受賞した。続いて、ヌエヴァ・ルナというバンドを結成し、キューバ各地にある会場で演奏した。2006年にはマーシャル・ソラール・国際ジャズピアノ・コンクールで準決勝まで進み、その翌年には優勝と観客賞を勝ち取った。2006年、オルケスタ・ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブに参加し、それ以来世界中でのツアーに参加している。
キューバのオルギン生まれ。正式な音楽の訓練は受けていないが、音楽一家の出身。父親はギターを弾き、母親は歌を歌い、いとこや叔父も音楽に関わっていた。歌手として最初に評価されたのは、1990年にキューバのテレビ放送で開催されたソネロスのコンテスト。チャランガ・アバネーラが歌って有名になったヒラルド・ピロートの「Mi Estrella」という歌を歌い、最優秀歌手に選ばれた2006年、オルケスタ・ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブに参加し、以来、世界中をツアーしている。
キューバのハバナ生まれ。音楽の伝統を引き継いできた家系の出身。父アマディート・バルデスはブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブのオリジナル・メンバーの一人で、幼い頃から音楽を学んできた。学生だった1992年、ピアニストであるアリーナ・トーレスの「グルーポ・ソン・オ・サルサ」のメンバーとして、ポピュラー・ミュージックの世界に踏み出した。それ以来、キューバの多くのヴォーカル・グループや伝統音楽グループと一緒に演奏活動をしている。2002年、マノリート・シモネットのプロデュースで、ヴォーカリストとしての最初のソロ・アルバム「Rumba con Swing」をリリース。キューバに戻った後、アルバム「Bajando Gervasio」の紹介を日本でするツアーに、父親と一緒に参加した。1年後、ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブに参加。2004年にはオマーラ・ポルトゥオンドの世界ツアーに参加した。2006年には、オルケスタ・ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブに参加し、以来世界をツアーして回っている。
キューバのハバナ生まれ。ハバナ音楽院の音楽科で学ぶ。1960~80年代にかけて、オルケスタ・ベニー・モレ、オルケスタ・リベルサイド、オルケスタ・カリベ、セリア・クルス、ベボ・バルデス、ゴンサロ・ロイグ、オルガ・ギジョーなど、キューバの様々なグループやアーティストたちと一緒に演奏した。1955年にはブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブに参加して世界ツアーをして、その後、オルケスタ・ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブに参加した。
キューバのハバナ生まれ。1955年にグアナバコアにある「聖フアン・ボスコ学校」で音楽を学び始め、後にはハバナ音楽院の音楽科で学んだ。1964年にはイグナシオ・セルバンテス音楽学校で、ソルフェージュ、音楽理論、和音、そしてトランペットを学び始めた。1960~80年代には、オルケスタ・ベニー・モレで8年、コンフント・フォルクロリコ・デ・ラ・ハバナで24年、演奏してきた。1990年代になると、アフロ・キューバン・オールスターズに参加、8年後には、クバニズモのツアーでヨーロッパやアメリカ合衆国を回った。2000年にはオルケスタ・ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブに参加し、以来世界中をツアーして回っている。
1965年、キューバのハバナ生まれ。1985年から2002年まで、ロベルト・ファスの楽団であるコンフント・カシーノ、ユムリ・イ・ス・ヘルマノス、バンド「メスクラ」、そしてサルサのスターであるイサック・デルガードなどと一緒に演奏した。なお、イサック・デルガードとは、アルバム「Versos en el cielo」を収録した。2003年から今日までオマーラ・ポルトゥオンドのグループの一員として活動し、世界中で称賛を受けている。スタジオ・アーティストとして、多くの作品に貢献してきた。そのうちの数多くが、ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブのシリーズである。