この映画の原作、ミッチ・カリンの小説「ミスター・ホームズ 名探偵最後の事件」(KADOKAWA 訳:駒月雅子)はリアルな人間としてのシャーロック・ホームズを描いている。「この映画は探偵というよりホームズという人間を掘り下げているところがユニークなんだ。過去の事件の謎を通して、彼は自分自身の謎を紐解いていくことになる」とプロデューサーのイアン・カニングが語るように、研ぎ澄まされた知性で有名だった探偵が、年老いて身体も思うように動かなくなった今、初めて自らの知力の衰えに立ち向かうという、誰も見たことのないホームズを描き出しているのだ。
これまでのホームズは常に脇を固めるキャラクターに囲まれていた。ワトスン博士、ハドソン夫人、兄のマイクロフト、レストレード警部――この映画では、彼ら全員が亡くなり、ホームズ一人が残されている。その中で彼は、新しい人間関係を築いていかなくてはならない。しかし限られた感情表現しかできない人間にとって、それはとても恐ろしいことであった。ビル・コンドン監督はこの物語について分析する。「あの驚くべき知力をなくしてしまったシャーロック・ホームズとはいったい何者なのか。人生最後のステージに入った時、自分を決定づける資質をなくしてしまったら人はどうなるのか。これは複雑で繊細な映画だ。その中心にイアン・マッケランがいる。そして人生の最後のステージを観察する。知力が衰える中、どうやって重要な事柄に集中するのか。もし人が限界を乗り越えてゆく方法を与えられたら、人はきっと人生で何か新しいことをやれるはずなんだ」。
監督にとって重要な要素の一つが、『ゴッド・アンド・モンスター』(98)で成功を収めたイアン・マッケランと再びチームを組むことだった。「17年前に『ゴッド・アンド・モンスター』を作って以来、イアンと僕はいつももう一度一緒に仕事をしたいと望んでいたが、彼に送る価値があると思える作品を見出せずにいたんだ。この脚本を読んだ時、彼にぴったりだと思った。彼から電話で『まさにこれだ!』と言われた時は本当にワクワクしたよ」。マッケランは「ビルが脚本のことを話してすぐに僕は『いつから始める?』と言ったんだ」と笑いながら語る。
マッケランは年取ったホームズを演じることに興味を抱いた。「93歳になったホームズは魅力的だった。僕の年齢になると、友人たちが亡くなり、新しい友人を作り、時に全くわからない異質な世界を理解しようと努力する老人とはどんなものか、否応なく興味が湧いてくる。彼が住んでいるのはファンタジーの世界ではなく、とてもリアルな世界であることも面白い」。リアルなシャーロック・ホームズは、ワトスンが書いた架空のシャーロック・ホームズとは違う。この映画のホームズは、ワトスンによって創作された有名なホームズ像に困惑し、「鹿打ち帽をかぶったこともないし、パイプをくゆらせたこともない」と不満を漏らす。「ホームズは人生を通してずっと痩せているはずだ」とマッケランは説明する。「人は彼に禁欲的で、神経症的な表情を望む。彼の表情に関心を抱く者はいても、そこから健康的なイメージは見えてこない。青白く、細く、骨ばった容姿に、大き目のスーツを着ている。衣装のキース・マッデンはそのすべてを慎重に考慮し、映画の舞台となる時代に作られた衣装を見つけ出し、それらを仕立て直したり複製したりしたね。僕たち俳優は、帽子をかぶり、襟にネクタイをつけると自信が湧いてくる。そして最高の杖を手に持つ!」。このようにして誰もが納得するマッケランのホームズが誕生したのである。この映画の原作、ミッチ・カリンの小説「ミスター・ホームズ 名探偵最後の事件」(KADOKAWA 訳:駒月雅子)はリアルな人間としてのシャーロック・ホームズを描いている。「この映画は探偵というよりホームズという人間を掘り下げているところがユニークなんだ。過去の事件の謎を通して、彼は自分自身の謎を紐解いていくことになる」とプロデューサーのイアン・カニングが語るように、研ぎ澄まされた知性で有名だった探偵が、年老いて身体も思うように動かなくなった今、初めて自らの知力の衰えに立ち向かうという、誰も見たことのないホームズを描き出しているのだ。
ホームズの大ファンだと語るローラ・リニーが演じているのは未亡人の家政婦マンロー夫人。「この映画は特徴的な時代を背景にしているのよ。戦後のイギリスでは、親と子の互いへの態度が現代とは大きく異なっている。彼女は今でも悲しんでいるし、戦争によって傷ついている。彼女の母国と家族が大きな犠牲を払い、今彼ら全員がそこから立ち直ろうとしている。ロジャーは戦争の最中に撃たれて死んだ父親のことをほとんど覚えていないし、彼の母親は出来るだけ現実の生活から彼を守ってきたわ。でもこのかなり威圧的な老人と同じ屋根の下に住み、ロジャーは彼に対する好奇心を募らせていき、彼とシャーロックは自分たちの関係を築き始めるの」。マッケラン同様、リニーもまた、ホームズの晩年を訪れるというアイデアに魅了された。「かつて非常にパワフルだったけれど、全盛期を過ぎてしまった人を見るのはどこか興味深いものがあるわ」。
ロジャーを演じる子役を見つけるのは、難しい挑戦となった。ホームズとロジャーとの関係が、ホームズとマンロー夫人との友情を開き、彼らは奇妙な家族のようになる。この映画にワトスン博士がいるとしたら、彼は10歳の少年だ。この映画は、ローラとイアンとロジャー役の子供の相性に掛かっていると言っても過言ではなかった。そしてマイロ・パーカーに巡り会った。「僕の唯一の心配は、ロジャーがたどる痛みと喪失感を表現するのに苦労するだろうということだったが、マイロは何の問題もなくやってのけたよ」と彼の作品への貢献を確信している。リニーも「まだ10歳なのに、完璧に準備して撮影にやって来て、大きな注目を受け止めて、すばやくそれを消化できる才能の持ち主よ」と賞賛する。パーカーは第18回英国インディペンデント映画賞有望新人賞他本年度数多くの賞にノミネートされている。 他にもロジャー・アラム、フランシス・デ・ラ・トゥーア、パトリック・ケネディ、フィル・デイヴィスなどイギリスの名優たち、そして、そこに真田広之が物語に深みを与える重要な役どころで花を添える。ホームズと真田演じるウメザキが出会う日本の実景シーンは、実際に静岡県大井川鐵道、奈良県瀞(どろ)ホテル、千葉の佐原市で撮影されている。ホームズに決して忘れることのできない印象を残すアン・ケルモットを演じたハティ・モラハンは、ニューヨークの舞台で活躍する今後注目の女優で、そのキャラクターのモデルはヒッチコックの『めまい』(58)のキム・ノヴァクである。世界最高の性格俳優たちが本作撮影のために全てを中断し、この映画にスケジュールを捧げた。
製作チームにとってロケ地を見つけることは大変な作業となった。引退後のホームズが生活する場所は、観客になじみのないロケ地を使いたいと望んだからである。数カ月に及ぶロケハンがおこなわれたのち、英サセックス州の海岸近くにあるライ郊外に農場を見つけた。マッケランはその景色に驚嘆した。「ホームズの家のロケーション、サウスダウンズに登って海を見下ろす景観の素晴らしさ! 毎日その景色を眺めるのは喜びだったよ」。そこに建つホームズの終の棲家を、美術のマーティン・チャイルズが手がけた。「家と家具のデザインでホームズの人生の歴史を作り上げた。たとえば、両方の時代に登場する一脚の椅子がある。ホームズが年を取っていくと、彼の世界も年を取っていく。彼と同じように家具も、家も、環境も年老いていくということを表現している」と語る。 また、現役のホームズが最後の事件を追う撮影場所はイースト・ロンドンに決まった。コンドン監督は「何十ものローションがあったが、僕はホームズが獲物を追いかける感覚が必要だと思った」と説明する。「その全ては15秒の尺しかないが、撮影は複雑を極めた。本屋から薬局、喫茶店へと移動するが、その場合それらがすべて数百メートルの範囲内になくてはならなかった」。作品へのチャイルズの熱い思いが、本作の全体的な様相に審美的な背景を与えているのだ。
ワトスンの小説に基づく映画をホームズが映画館に観に行くシーンをはじめ、本作では過去たびたび映像化されてきた〈シャーロック・ホームズ〉へのオマージュが随所に見られる。ホームズが観ている映画『Sherlock Holmes and The Lady in Grey(シャーロック・ホームズとレディ・イン・グレイ)』には、この映画に登場するキャラクターが出てくる。たとえば、映画ではフランシス・デ・ラ・トゥーアが演じているマダム・シルマーを、映画の中の映画ではフランシス・バーバーがハリウッドのメロドラマのように誇張されたキャラクターとして大げさに演じている。また『ヤング・シャーロック/ピラミッドの謎』(86)に主演したニコラス・ロウが映画の中のホームズに配役されているところにもホームズファンがニヤリを笑う演出となっている。
しかし、新たなホームズを映像化するには困難を要した。原作に描かれている2つの時間の変化を表現しなければならないからだ。「物語を1947年に置いているところが天才的だ。その頃にはホームズはある意味忘れ去られたヒーローだからね。でも1919年に戻ることによって、我々はホームズとワトスンが活躍した当時のサスペンスを思い出す。そのバランスが物語全体に堂々とした風格を与えているんだ」と脚本のジェフリー・ハッチャーは分析する。監督はホームズの2つの顔をデザインするため、メイクアップ・アーティストのデイヴ&ルー・エルシーと何度も試行錯誤を繰り返した。「観客の気を散らしたくなかったんだ。エルシーはホームズの大ファンで、鼻を見事に作り上げたよ」。若い顔と年取った顔の両方をメイクしなければならないマッケランは、ガンダルフのメイク時間を破るよう注文を出した。そしてデイヴ・エルシーはその課題を克服した。「『ロード・オブ・ザ・リング』と『ホビット』シリーズの6作目に至る時には、ガンダルフのメイク時間は45分を切っていたらしい。だけど、その時間を破ったよ!」