













「この街で辛い目にあったが、
それでも希望やパワーを
持てる地だ」
映画『黄昏のチャイナタウン』より
ある日、「あなたにとって神聖なものとは?」という難問に答えなければならず、本能的にこのように答えた。「神聖なものとは、人生で忘れられないものである」と。こうしてこの映画が生まれた。
私にとって、本作は何よりも神聖なものを扱った映画である。ある女性が73年の人生で忘れられなかったもの。ナポリの海や両親、太陽の光の下での純真な初恋、汚れた口に出せないもう一つの恋、カプリでの最高の夏とその気楽さ、塩の香る夜明け、芳しい夜、静かな朝、束の間の出会い、不思議な出会いや運命的な出会い、青春期におけるエロチシズムや誘惑への目覚め、自由への陶酔、可能な限り生を感じ、ため息をつくこと、狂おしいほどの自己探究、失敗した恋や、形にすらならなかった恋、大人になることで感じる苦悩、過ぎ去っていく人生、容赦なく流れていく時間、決して離れることのないたった一人の恋人、ナポリとその苛立たしいまでの活力、街角では信じられないことが起こり、群衆はまるで見えないカーテンの後ろでつねに列に並んでいるかのように、パルテノペの人生に加わり、混沌や俗悪さ、驚き、美しさや放蕩、その他ありとあらゆるものを彼女にもたらしている。
ナポリは自由で危険な街であり、パルテノペのように、決して決めつけることはない。彼女はつねに自由であり、決してそれを手放さない。その代償として、パルテノペは孤独を抱えている。残念なことに、孤独と自由はしばしば対をなすものである。予測できないすばらしい人生の幻想を抱くには、ナポリは理想的な場所である。ジョルジョ・マンガネッリの見事な比喩を借りれば、この街で私たちの人生は、まるで絨毯の裏側の模様のように複雑な姿を見せる。私たちはその模様を推測することはできるが、決して完全には見ることはできない。人の人生とは明確なものではなく、論理的なものでもない。人生は広大であり、私たちは絶えず道に迷っている。
人生を見つめようとし、秩序立てようとするが、人生は私たちを見てはくれず、つねに別の場所にある。これこそが私たちが置かれている状況であり、私たちを疲れさせ、疑念を抱かせ、そして神秘的なものとしているのである。パルテノペも私たちと同様、疑念と神秘に満ちている。
「愛しすぎているのか、それとも愛し足りないのか?そこに違いがある」と、作中で聖人に扮した悪魔のような人物がパルテノペに尋ねる場面がある。この質問は私たち一人一人に向けられている。パルテノペも、そして私たちも答えを知らない。あらゆる質問がなされたが、答えはすべて不確かで曖昧、矛盾しているからである。自分自身を理解していないからこそ、他人の目には私たちは神秘的に映るのである。
パルテノペは神秘である。
いずれにせよ、私たちは自らを見捨て、責任を負い、そして見捨てられる。それが時の流れというものであり、本作の野心的なテーマとなっている。人生の流れには幸福感と失望感、愛とその終わり、憂いの終わりと欲望の始まりが含まれている。 つまり、人生のあらゆる側面が可能な限り一つの映画に込められている。
そして時が経つにつれ、ナポリでの驚くべき予測不能な生活もまた、輝きを失っていく。パルテノペは見捨てられた。若さを失い、他人から見られることもなく、突如として感情は消え去ってしまった。ナポリの海はもはやただの水でしかない。驚きは薄れ、幻想に騙されることもなくなった。人は孤独になる。そしてニーチェが言うように、自分という存在になる。こうしてパルテノペはナポリを離れ、誰にも知られない場所へと向かう。今やパルテノペは大人となり、働いている。プルーストが書いたように、そしてデ・ニーロが演じたように、40年間、彼女は早い時間に床に就いていた。パルテノペは愛し足りない。
73歳、仕事を辞めたパルテノペは再び変わらざるをえず、自身の過去や内にある神聖なものを見つめ直さなければならない。そして再び愛し始め、あるいは愛することを思い描く。ゆえに彼女はナポリへと戻って来る。野性的で気取ったナポリの街は決して変わらず、年月を経てもなお私たちを欺き、魅了する。それこそが私たちを最後まで生へと繋ぎとめる唯一の感情なのかもしれない。
そしてパルテノペはため息をつく。若いころのように。
パオロ・ソレンティーノ
ある日、「あなたにとって神聖なものとは?」という難問に答えなければならず、本能的にこのように答えた。「神聖なものとは、人生で忘れられないものである」と。こうしてこの映画が生まれた。
私にとって、本作は何よりも神聖なものを扱った映画である。ある女性が73年の人生で忘れられなかったもの。ナポリの海や両親、太陽の光の下での純真な初恋、汚れた口に出せないもう一つの恋、カプリでの最高の夏とその気楽さ、塩の香る夜明け、芳しい夜、静かな朝、束の間の出会い、不思議な出会いや運命的な出会い、青春期におけるエロチシズムや
誘惑への目覚め、自由への陶酔、可能な限り生を感じ、ため息をつくこと、狂おしいほどの自己探究、失敗した恋や、形にすらならなかった恋、大人になることで感じる苦悩、過ぎ去っていく人生、容赦なく流れていく時間、決して離れることのないたった一人の恋人、ナポリとその苛立たしいまでの活力、街角では信じられないことが起こり、群衆はまるで見えないカーテンの後ろでつねに列に並んでいるかのように、パルテノペの人生に加わり、混沌や俗悪さ、驚き、美しさや放蕩、その他ありとあらゆるものを彼女にもたらしている。
ナポリは自由で危険な街であり、パルテノペのように、決して決めつけることはない。彼女はつねに自由であり、決してそれを手放さない。その代償として、パルテノペは孤独を抱えている。残念なことに、孤独と自由はしばしば対をなすものである。予測できないすばらしい人生の幻想を抱くには、ナポリは理想的な場所である。ジョルジョ・マンガネッリの見事な比喩を借りれば、この街で私たちの人生は、まるで絨毯の裏側の模様のように複雑な姿を見せる。私たちはその模様を推測することはできるが、決して完全には見ることはできない。人の人生とは明確なものではなく、論理的なものでもない。
人生は広大であり、私たちは絶えず道に迷っている。
人生を見つめようとし、秩序立てようとするが、人生は私たちを見てはくれず、つねに別の場所にある。これこそが私たちが置かれている状況であり、私たちを疲れさせ、疑念を抱かせ、そして神秘的なものとしているのである。パルテノペも私たちと同様、疑念と神秘に満ちている。
「愛しすぎているのか、それとも愛し足りないのか?そこに違いがある」と、作中で聖人に扮した悪魔のような人物がパルテノペに尋ねる場面がある。
この質問は私たち一人一人に向けられている。パルテノペも、そして私たちも答えを知らない。あらゆる質問がなされたが、答えはすべて不確かで曖昧、矛盾しているからである。自分自身を理解していないからこそ、他人の目には私たちは神秘的に映るのである。
パルテノペは神秘である。
いずれにせよ、私たちは自らを見捨て、責任を負い、そして見捨てられる。それが時の流れというものであり、本作の野心的なテーマとなっている。人生の流れには幸福感と失望感、愛とその終わり、憂
いの終わりと欲望の始まりが含まれている。 つまり、人生のあらゆる側面が可能な限り一つの映画に込められている。
そして時が経つにつれ、ナポリでの驚くべき予測不能な生活もまた、輝きを失っていく。パルテノペは見捨てられた。若さを失い、他人から見られることもなく、突如として感情は消え去ってしまった。ナポリの海はもはやただの水でしかない。驚きは薄れ、幻想に騙されることもなくなった。人は孤独になる。そしてニーチェが言うように、自分という存在になる。こうしてパルテノペはナポリを離れ、誰
にも知られない場所へと向かう。今やパルテノペは大人となり、働いている。プルーストが書いたように、そしてデ・ニーロが演じたように、40年間、彼女は早い時間に床に就いていた。パルテノペは愛し足りない。
73歳、仕事を辞めたパルテノペは再び変わらざるをえず、自身の過去や内にある神聖なものを見つめ直さなければならない。そして再び愛し始め、あるいは愛することを思い描く。ゆえに彼女はナポリへと戻って来る。野性的で気取ったナポリの街は決して変わらず、年月を経てもなお私たちを欺き、魅了す
る。それこそが私たちを最後まで生へと繋ぎとめる唯一の感情なのかもしれない。
そしてパルテノペはため息をつく。若いころのように。
パオロ・ソレンティーノ

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サンローラン
プロダクションについて
フランスのファッションブランド、サンローランの正式な子会社として設立された「サンローラン プロダクション」の始動により、サンローランは映画制作を本格的な活動の一つとして取り入れた初のラグジュアリーブランドとなった。この新たな取り組みは、サンローランのクリエイティブ・ディレクター アンソニー・ヴァカレロによって構想され、彼が導くブランドの未来像と共鳴しながら、そのコレクションに見られる映画的な広がりと繊細さを反映している。「これまで私にインスピレーションを与えてくれた素晴らしい映画作家たちと仕事をし、彼らのための場を提供したいと思っています」と、サンローランのクリエイティブ・ディレクターであるヴァカレロは語る。
