文:高橋ヨシキ
復讐は虚しい、と人は言う。
だが「そんなことはないぞ!」と力強く主張する映画は数多く、『ランボー/ラスト・ブラッド』もまさにそういう映画である。
多くの映画が復讐を称揚できるのには、映画というメディアの持つ時間的な性質が関係している。ほとんどの商業映画の上映時間は2時間前後であり、その中において無限の時間を描くことが可能であるとしても、おおむね2時間後に上映が終わると観客はほっと一息ついて、「物語が終わった」ことに満足して(あるいは不満を募らせながら)劇場をあとにする。「終わり」があることは映画の美点であり、「終わり」があるがゆえに我々は血なまぐさい復讐が成し遂げられたことにカタルシスを覚えつつ、そこで一旦「おしまい」にして日常生活に戻ることができる。
ところが実人生には「おしまい」というものがないので(自分自身が死ぬ瞬間は自覚できないので「おしまい」は原理的に存在しない)、復讐で得られる瞬間的なカタルシスはあっという間に色あせ、その隙間に罪悪感や悔悟の念、自分のやったことは本当に正しかったのだろうかという懐疑心などがむくむくと頭をもたげてくる。
一方、映画というメディアは時間そのものを操ることが可能であるため、「瞬間的なカタルシス」を延々と引き伸ばすことができる。言葉の本来の意味で、きわめてポルノ的にだ。ポルノは何もかもを拡大し、引き伸ばし、快楽の幻影をどこまでも延長する。誤解のないように書いておくが、映画がポルノ的な快楽装置として機能するということは、決して映画の価値を損なうものではない。そもそもが窃視症的なメディアであるということを差し引いても、映画表現はポルノ的な快楽と不可分なのである。
『ランボー/ラスト・ブラッド』はミニマリスト的な映画である。不必要なまでに回りくどいナラティブがもてはやされる現在の映画界にあって、このシンプルさは特筆に値する。これを主人公ジョン・ランボーのキャラクターから導かれる必然と見るか、単に語るべきことが少なかったからと見るかは人それぞれだが、ランボー自身がとてもシンプルな人間であることは間違いない。
長きに渡る放浪と殺戮の旅路から解放されて、やっと母国に終の棲家をみつけたランボーは、ほとんど時代と隔絶したかのようなシンプルな牧場ライフを満喫している。朝起きて、ごはんを食べて、馬の世話をして、かつてのベトコンのように地下トンネルを掘り進めるランボー。地下トンネルを掘り進めていることを除けば、開拓時代のカウボーイのようだと言っても過言ではない。
いっそ地下トンネルを掘るのもやめにして、平和な牧場生活を送ればいいじゃないか、と思われるかもしれないが、ランボーには是が非でも地下にトンネルを掘り続けなくてはならない理由がある。
本作のランボーはこれまでのシリーズと比べても格段に饒舌だが(あれでも饒舌になった方なのだ)、それは彼がいくばくかの人間性を回復したことを物語っている。米軍によって、稀代の殺人マシンに鍛え上げられたランボーは、ベトナムで壊れ、ベトナムから帰ってきて壊れ、またベトナムに行って壊れ、アフガニスタンに行って壊れ、はたまたミャンマーに行って壊れと、サバイバルと引き換えに自らの人間性を幾度となく手放してきた。平和なアメリカの片田舎で牧場暮らしを始めたからといって、失われた人間性は簡単に回復できるものではない。ランボーの世界は死臭漂う血まみれの戦場で、彼はそこにしか自分の居場所を見出すことができない。
そこで地下トンネルである。本作の面白いところは、ランボーが築いたこの地下トンネルにいくらでも過剰な意味付けが可能なところにある。トンネルは敵の墓場であると同時にランボーの墓場でもあり、墓場であることによって逆説的にランボーの生きる場所ともなる。この迷宮のようなトンネルがどこにも繋がっていないことも重要だ。それはランボーが出口なしの世界に囚われたままであることを示すものでもあり、彼がベトナムの悪夢からまったく抜け出せていないことの証明でもある。娘のように可愛がっているガブリエラに懇願されて、彼女の友人たちをトンネルに入れてやるシーンも重要だ。若者たちはトンネルの威容に驚き、いったいなんでランボーはこんな得体のしれないトンネルを掘っているのかいぶかしがる。まるでベトナム戦争の話を聞いた若者世代が、なんだってそんな得体のしれない戦争が長引いたのかと不思議がるようにだ。
さらにランボーはこのトンネルで武器を鍛え、また随所にブービートラップを仕掛けることでトンネル自体をひとつの大きな武器へと作り変える。ちょうどアメリカ軍がランボーを殺人マシンへと改造したようにだ。
しかしベトコンのトンネルに、ベトコン得意のブーブートラップを仕掛けて、ランボーはいったい何をしようとしているのか?
ベトナム戦争が終わり、アメリカに帰ってきたランボーは横柄な警察官にいじめられて、山へと逃げ延びた(『ランボー』1作目)。山狩りを始めた警察と州兵相手に、ランボーはベトコン仕込みのブービートラップを用いて対抗することで活路を見出した。このときランボーは山を戦場へと変えることでサバイバルしたわけだが、今回のランボーもそれと同じである。張り巡らされたトンネルを武器に変えるということは、農場全体を戦場にすることだーーそうすれば、おのずとそこがランボーの居場所になる。『ランボー』1作目の原題は『ファースト・ブラッド』という。5作目となる本作の副題は『ラスト・ブラッド』だ。シリーズ最初と最後となるこの2作品は、どちらもランボーが母国アメリカの土地を戦場へと変容させることで生き延びる物語だ。もっと言えば、ランボーはベトナムの戦場をアメリカに再現している。その「ベトナムの戦場としてのアメリカ」を完全な形で成立させるためにも、ランボーはどうしても地下トンネルを掘らねばならなかったのである。
ところで『ロッキー』シリーズの主人公ロッキー・バルボアと違って、ジョン・ランボーは無敵の男である。ちょっと考えてみれば分かるが、無敵の男を主人公にドラマを作るのは難しい。どんな戦いになろうとも、ランボーが負ける可能性は限りなく低いので、危機また危機をかれがどうやって乗り越えるのか、という部分がほとんどサスペンスとして機能しないからだ。にも関わらず、本作を観ている間、観客はハラハラしっぱなしの状態に置かれることになる。何にハラハラするかといえば、それはランボーがいつ怒って、いつ殺人マシンの本性を顕に敵をブッ殺してしまうのか、という部分に対してである。ランボーが敵をこっぴどいやり方で皆殺しにする(であろう)、ということは本作の場合まったくネタバレに当たらない。ネタバレに気をつけるとしたら、誰が、いつ、どうやってランボーを本気で怒らせてしまうのか? という部分に尽きる。
「ルーブ・ゴールド・マシン」というのは、過剰に積み重ねられたからくり仕掛けの連鎖が一点の結末に向かって収束する機構のことだが、テレビ番組『ピタゴラスイッチ』の「ピタゴラ装置」のようなもの、と言った方が通りが良いかもしれない。「ピタゴラ装置」と映画との相性は抜群だ。『チキチキ・バンバン』や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(『BTTF』のそれは『チキチキ・バンバン』のオマージュだが)、『グーニーズ』に『ピーウィーの大冒険』などなど、「ピタゴラ装置」をフィーチャーした映画は数多い。また「ピタゴラ装置」を簡略化したものとしてのブービートラップは、アクション映画からホラー映画、食人映画に至るバリエーション豊かな作品に映画的な見せ場を提供してきた。
「ピタゴラ装置」には「複雑なからくり仕掛けの連鎖が一点の結末に向かって収束する」という特徴があり、これは映画の物語構造そのものの特徴と一致する。シーンやカットといった映画の「部分」は、フラクタル的に映画自体を模倣するため、「ピタゴラ装置」の動きを見せる場面はそれ自体として「映画的」な快楽をもたらすのだ(1987年のアート映画『The Way Things Go』は大掛かりな「ピタゴラ装置」の運動だけを映し出す作品だった)。
『ランボー/ラスト・ブラッド』を観る楽しみは、ピタゴラ装置の運動を眺める快楽に非常に近いものがある。ここではストーリーと、ランボー自身と、またランボーが仕掛ける数々のブービートラップが、それぞれ「ピタゴラ装置」として機能している。「ピタゴラ装置」が見事に機能することで、次々と死体の山が築かれていく……本作はそんな映画だ。そして、この「死のピタゴラ装置」は同時に、「復讐がもたらす瞬間的なカタルシス」を引き伸ばすものでもある。映画がもたらす快楽の種類を数え上げたらきりがないが、「復讐」と、それを盛り上げる華々しいばかりの「(敵の)死にざま」もまた、純然たる映画的快楽の源泉であると『ランボー/ラスト・ブラッド』は自信を持って断言してくれているのである。
だが「そんなことはないぞ!」と力強く主張する映画は数多く、『ランボー/ラスト・ブラッド』もまさにそういう映画である。
多くの映画が復讐を称揚できるのには、映画というメディアの持つ時間的な性質が関係している。ほとんどの商業映画の上映時間は2時間前後であり、その中において無限の時間を描くことが可能であるとしても、おおむね2時間後に上映が終わると観客はほっと一息ついて、「物語が終わった」ことに満足して(あるいは不満を募らせながら)劇場をあとにする。「終わり」があることは映画の美点であり、「終わり」があるがゆえに我々は血なまぐさい復讐が成し遂げられたことにカタルシスを覚えつつ、そこで一旦「おしまい」にして日常生活に戻ることができる。
ところが実人生には「おしまい」というものがないので(自分自身が死ぬ瞬間は自覚できないので「おしまい」は原理的に存在しない)、復讐で得られる瞬間的なカタルシスはあっという間に色あせ、その隙間に罪悪感や悔悟の念、自分のやったことは本当に正しかったのだろうかという懐疑心などがむくむくと頭をもたげてくる。
一方、映画というメディアは時間そのものを操ることが可能であるため、「瞬間的なカタルシス」を延々と引き伸ばすことができる。言葉の本来の意味で、きわめてポルノ的にだ。ポルノは何もかもを拡大し、引き伸ばし、快楽の幻影をどこまでも延長する。誤解のないように書いておくが、映画がポルノ的な快楽装置として機能するということは、決して映画の価値を損なうものではない。そもそもが窃視症的なメディアであるということを差し引いても、映画表現はポルノ的な快楽と不可分なのである。
『ランボー/ラスト・ブラッド』はミニマリスト的な映画である。不必要なまでに回りくどいナラティブがもてはやされる現在の映画界にあって、このシンプルさは特筆に値する。これを主人公ジョン・ランボーのキャラクターから導かれる必然と見るか、単に語るべきことが少なかったからと見るかは人それぞれだが、ランボー自身がとてもシンプルな人間であることは間違いない。
長きに渡る放浪と殺戮の旅路から解放されて、やっと母国に終の棲家をみつけたランボーは、ほとんど時代と隔絶したかのようなシンプルな牧場ライフを満喫している。朝起きて、ごはんを食べて、馬の世話をして、かつてのベトコンのように地下トンネルを掘り進めるランボー。地下トンネルを掘り進めていることを除けば、開拓時代のカウボーイのようだと言っても過言ではない。
いっそ地下トンネルを掘るのもやめにして、平和な牧場生活を送ればいいじゃないか、と思われるかもしれないが、ランボーには是が非でも地下にトンネルを掘り続けなくてはならない理由がある。
本作のランボーはこれまでのシリーズと比べても格段に饒舌だが(あれでも饒舌になった方なのだ)、それは彼がいくばくかの人間性を回復したことを物語っている。米軍によって、稀代の殺人マシンに鍛え上げられたランボーは、ベトナムで壊れ、ベトナムから帰ってきて壊れ、またベトナムに行って壊れ、アフガニスタンに行って壊れ、はたまたミャンマーに行って壊れと、サバイバルと引き換えに自らの人間性を幾度となく手放してきた。平和なアメリカの片田舎で牧場暮らしを始めたからといって、失われた人間性は簡単に回復できるものではない。ランボーの世界は死臭漂う血まみれの戦場で、彼はそこにしか自分の居場所を見出すことができない。
そこで地下トンネルである。本作の面白いところは、ランボーが築いたこの地下トンネルにいくらでも過剰な意味付けが可能なところにある。トンネルは敵の墓場であると同時にランボーの墓場でもあり、墓場であることによって逆説的にランボーの生きる場所ともなる。この迷宮のようなトンネルがどこにも繋がっていないことも重要だ。それはランボーが出口なしの世界に囚われたままであることを示すものでもあり、彼がベトナムの悪夢からまったく抜け出せていないことの証明でもある。娘のように可愛がっているガブリエラに懇願されて、彼女の友人たちをトンネルに入れてやるシーンも重要だ。若者たちはトンネルの威容に驚き、いったいなんでランボーはこんな得体のしれないトンネルを掘っているのかいぶかしがる。まるでベトナム戦争の話を聞いた若者世代が、なんだってそんな得体のしれない戦争が長引いたのかと不思議がるようにだ。
さらにランボーはこのトンネルで武器を鍛え、また随所にブービートラップを仕掛けることでトンネル自体をひとつの大きな武器へと作り変える。ちょうどアメリカ軍がランボーを殺人マシンへと改造したようにだ。
しかしベトコンのトンネルに、ベトコン得意のブーブートラップを仕掛けて、ランボーはいったい何をしようとしているのか?
ベトナム戦争が終わり、アメリカに帰ってきたランボーは横柄な警察官にいじめられて、山へと逃げ延びた(『ランボー』1作目)。山狩りを始めた警察と州兵相手に、ランボーはベトコン仕込みのブービートラップを用いて対抗することで活路を見出した。このときランボーは山を戦場へと変えることでサバイバルしたわけだが、今回のランボーもそれと同じである。張り巡らされたトンネルを武器に変えるということは、農場全体を戦場にすることだーーそうすれば、おのずとそこがランボーの居場所になる。『ランボー』1作目の原題は『ファースト・ブラッド』という。5作目となる本作の副題は『ラスト・ブラッド』だ。シリーズ最初と最後となるこの2作品は、どちらもランボーが母国アメリカの土地を戦場へと変容させることで生き延びる物語だ。もっと言えば、ランボーはベトナムの戦場をアメリカに再現している。その「ベトナムの戦場としてのアメリカ」を完全な形で成立させるためにも、ランボーはどうしても地下トンネルを掘らねばならなかったのである。
ところで『ロッキー』シリーズの主人公ロッキー・バルボアと違って、ジョン・ランボーは無敵の男である。ちょっと考えてみれば分かるが、無敵の男を主人公にドラマを作るのは難しい。どんな戦いになろうとも、ランボーが負ける可能性は限りなく低いので、危機また危機をかれがどうやって乗り越えるのか、という部分がほとんどサスペンスとして機能しないからだ。にも関わらず、本作を観ている間、観客はハラハラしっぱなしの状態に置かれることになる。何にハラハラするかといえば、それはランボーがいつ怒って、いつ殺人マシンの本性を顕に敵をブッ殺してしまうのか、という部分に対してである。ランボーが敵をこっぴどいやり方で皆殺しにする(であろう)、ということは本作の場合まったくネタバレに当たらない。ネタバレに気をつけるとしたら、誰が、いつ、どうやってランボーを本気で怒らせてしまうのか? という部分に尽きる。
「ルーブ・ゴールド・マシン」というのは、過剰に積み重ねられたからくり仕掛けの連鎖が一点の結末に向かって収束する機構のことだが、テレビ番組『ピタゴラスイッチ』の「ピタゴラ装置」のようなもの、と言った方が通りが良いかもしれない。「ピタゴラ装置」と映画との相性は抜群だ。『チキチキ・バンバン』や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(『BTTF』のそれは『チキチキ・バンバン』のオマージュだが)、『グーニーズ』に『ピーウィーの大冒険』などなど、「ピタゴラ装置」をフィーチャーした映画は数多い。また「ピタゴラ装置」を簡略化したものとしてのブービートラップは、アクション映画からホラー映画、食人映画に至るバリエーション豊かな作品に映画的な見せ場を提供してきた。
「ピタゴラ装置」には「複雑なからくり仕掛けの連鎖が一点の結末に向かって収束する」という特徴があり、これは映画の物語構造そのものの特徴と一致する。シーンやカットといった映画の「部分」は、フラクタル的に映画自体を模倣するため、「ピタゴラ装置」の動きを見せる場面はそれ自体として「映画的」な快楽をもたらすのだ(1987年のアート映画『The Way Things Go』は大掛かりな「ピタゴラ装置」の運動だけを映し出す作品だった)。
『ランボー/ラスト・ブラッド』を観る楽しみは、ピタゴラ装置の運動を眺める快楽に非常に近いものがある。ここではストーリーと、ランボー自身と、またランボーが仕掛ける数々のブービートラップが、それぞれ「ピタゴラ装置」として機能している。「ピタゴラ装置」が見事に機能することで、次々と死体の山が築かれていく……本作はそんな映画だ。そして、この「死のピタゴラ装置」は同時に、「復讐がもたらす瞬間的なカタルシス」を引き伸ばすものでもある。映画がもたらす快楽の種類を数え上げたらきりがないが、「復讐」と、それを盛り上げる華々しいばかりの「(敵の)死にざま」もまた、純然たる映画的快楽の源泉であると『ランボー/ラスト・ブラッド』は自信を持って断言してくれているのである。