DIRECTOR'S NOTES

私はどんな映画を作りたいのか?
そして、それはなぜか?
できるだけ短い言葉で
正確に伝えるなら、答えはこうだ。
『私が書いた脚本から自然に花開いた、
純粋で誠実な必然によって生まれる映画』
でも、この答えだけでは十分でないだろう。
だから、「瞳をとじて」が必然として
伴う“何か”について説明したい。
そのためには概念の領域を掘り下げる
必要があるが、私の意図を明確に宣言する。
もちろん、それはよき意図だ。
よき意図がよい結果を生むとは限らないと、
分かっていたとしても。

プロットの細部を積み重ねた果てに、
この映画が観客に向かって
描こうとする物語は、
密接に関わる2つのテーマ
“アイデンティティと記憶”を巡って展開する。
かつて俳優だった男と、映画監督だった男。
友人である二人の記憶。
過ぎゆく時の中で、一人は完全に記憶を失い、
自分が誰なのか、誰であったのか、
分からなくなる。
もう一人は、過去を忘れようと決める。
だが、どんなに逃れようとしても、
過去とその痛みは追ってくることに気づく。

記憶は、テレビの映像としても保存される。
人間の経験を身近な形で
記録したいという現代の衝動を、
何よりも象徴しているメディアだ。

映画を撮る者の記憶は、ブリキ缶の棺に
大切に保管されたフィルムだ。
映画館のスクリーンから遠く離れて、
映像視聴メディアによって社会における
居場所を奪われた、
それぞれの物語の亡霊たち。
この文章を綴る者の記憶と同じように、
長く刻まれる。

これらの特性を内包した物語は、
半分は経験したこと、半分は想像から生まれた。
私は映画の脚本を、自分で書いている。
だから、私が人生において
最も関心を抱いていることが、
作品のテーマだと考えるのは自然なことだ。
言葉では伝えきれないが、
一本の映画を観た経験が主役となる
詩的な芸術性に属するものだ。
そういう意味で、「瞳をとじて」では
映画の2つのスタイルが交錯する。
1つは舞台と人物において幻想を創り出す
手法による、クラシックなスタイル。
もう1つは現実によって満たされた、
現代的なスタイルである。
別の言い方をするなら、
2つのタイプの物語が存在する。
一方は、伝説がシェルターから現れて、
そうだった人生でなく、
そうあるはずだった人生を描く物語。
そしてもう一方は、
記憶も未来も不確かな世界で
さまよいながら、
今まさに起こっている物語だ。

ビクトル・エリセ

後援:インスティトゥト・セルバンテス東京